ニ、都の噂
所は変わって、ここは三条通りに店を構える一軒の酒楼。
とにかく助けてもらった礼はしたいという少年を、子供がここへ連れてきたのだ。
まだ昼前だというのに、店内はすでに賑わっている。常連客らしい男達数人が酒を呑んで笑い合っている様は陽気ではあるが、子供が出入りするような場所ではない。
しかし子供は物怖じもせず、すたすたと中へ入って行った。慣れたように常連客達と軽く挨拶を交わしながら、奥の席に着く。そして少年を向かい側に座らせ、店員を呼んだ。
「おい六太! いるか!」
「はいはーい! って、何だコウ姉ェか」
(えっ…)
店の奥からぱたぱたと出てきたのは、藍色の前掛けをつけたまだ幼い少年だ。
六太と呼ばれた彼は、丸い盆に載せた茶を二人の前に置いて、少年の顔を見てにやっと笑う。
「ずいぶん綺麗なお連れさんと一緒だね。連れ立って花見帰りかい?」
「まァ、似たようなもんだな。そこで知り合ったんだ。ああ、今日は飴湯をくれ」
「はいはい。それで、お代はいつものように?」
「いや、今日はこいつの奢りだ」
な? と同意を求められ、少年は「ああ、」と頷く。
礼は飴湯一杯で良い、ということなのだろう。
それよりも気になるのは…、
(今、確かに姉ェ…と…)
「ふぅん。それじゃあ、こっちのお連れさんは何にする?」
「…俺も飴湯を」
「はいよっ。少々お待ちをーっ」
言って、六太は再び店の奥に消えた。
そして少年の目の前に座る子供が、「お前、甘い物は好きか?」と尋ねてくる。
「ここの飴湯はけっこう甘いぞ。平気か?」
「甘い物は、嫌いじゃないし。大丈夫だろう。子供の頃に飲んだきりだから、懐かしいな。それより…」
少年は、子供の顔をじっと見つめた。
子供は両手で湯飲みをおさえ、ふうふうと息を吹きかけている。
「…君は…女…なのか…?」
「ハア? 今更何を言うか。どっからどうみても女だろうが」
心外だ、とでも言うように、子供が眉をしかめる。
「……………」
いや待てと、少年は言いたかった。
普通の女の子はそんな傾いた恰好はしないし、そんな乱暴な言葉遣いもしないし、木刀を振り回してゴロツキを追っ払ったりしない。
随分変わった女の子が、火の都にはいるものだと、少年は思った。
「そういえば、まだ聞いていなかったな。お前、名前は? ちなみにわしはコウという。いつまでも『君』と呼ばれてはくすぐっとうてかなわんので、コウと呼べ」
皆そう呼ぶと、子供―コウは言う。
「…浅葱だ」
「浅葱か。色の名前だな。わしも同じだ。くれない、と書いて、紅と読む」
名前を言い合ってしまうと、紅はもう興味を無くしたように浅葱の顔から視線を外し、今度は何の変哲もない店の隅をじっと見つめ始めた。まるで猫のようだと、浅葱がそんな紅の様子を見ていると、さらに数人の男達ががやがやと店に入ってくる。
各々に工具箱や荷物を抱えた、職人風の男達だ。
男達は紅の姿をみとめると、「おう、お嬢じゃねェか」と気軽に声を掛けてくる。
「昼間っから色男と逢引きたァ大したもんだな。…って、随分とまあ綺麗な男を引っかけたなァお嬢」
がははと豪快に笑うのは、男達の中でも一等体格の良い男だ。
どうやら紅と知り合いらしい彼らは、当然のように浅葱達と同じ卓に着いた。
そして浅葱達の分の飴湯を運んできた六太に、「いつもの頼まァ」と注文する。
「おい兄ちゃん、気ィつけた方がいいぞ。お嬢は顔は綺麗ェだが腕っ節が強すぎらァ。なあ?」
違ェねえ違ェねえと、男達が陽気に笑う。
むすっと仏頂面になった紅が、不機嫌そうに「黙れ酔っ払い共」と毒吐いた。
「ここに居る奴らァ皆、お嬢にブッ飛ばされたクチよ。がはは、お嬢の腕っぷしに敵う奴ァ、もうここらにゃ居ねェよなあ」
「そうそう。酔っ払って取っ組み合いの喧嘩になって暴れてたところを、紅姉ェにみーんな伸されちゃったんだよね」
盆に熱燗を数本載せて持ってきた六太が、くすくすと笑いながら言う。
当の紅はというと、もう我関せずと熱い飴湯をふうふう吹いて冷ましていた。どうやら猫舌らしい。
六太や男達が言うには、彼らはある日、仕事が思うように進まずに機嫌がすこぶる悪かった。そんな中で荒酒を呑みまくって悪酔いしてしまい、店に居た他の客と些細なことで言い争いになり、止めに入ったこの酒楼の店主も巻き込んでの大喧嘩に発展したのだそうだ。そこへ、この酒楼の二階に逗留していた紅が降りてきて、
『喧しいわっ!!』
と一喝。手当たりしだい木刀でブン殴って回ったらしい。
結果、ものの数刻で大の男十数人が一人の少女に伸されてしまった。
「それ以来、逗留してる間は店の用心棒も兼ねてもらってるんだ。おかげでここ最近は平和だよ」
「逗留…一人でか? 紅は火の都の人間じゃないのか?」
話を振ると、真剣になって飴湯を冷ましていた紅が顔を上げた。
「…んー、まあな。しばらくはここにいるつもりだが…」
「うちとしては、酔っ払いが暴れた時紅姉ェがいてくれると安心だから大歓迎だよ」
他の客に呼ばれての去り際に、六太が言う。
「うんうん。以来この店で呑む奴ァ、お嬢が怖くて暴れねェしな」
「お嬢にブッ飛ばされるのに比べたら、俺らのゲンコツなんて軽いもんよ」
聞けば聞くほど、紅の武勇に驚くばかりだ。実際にその腕前を見たとはいえ、相手はさっきのゴロツキ達よりも多人数。しかも酒を呑んで理性を無くしていた男達は、手加減も容赦もなく紅に向かっていっただろう。それを、たった一人で倒したのだ。
知れば知るほど常識はずれな少女だ。しかしそれだけの腕を持っていながら、今は年相応に飴湯に頬をほころばせているから、こちらもついつい表情が緩んでしまう。
(…甘い…)
久しぶりに口にした飴湯は、舌の上でとろけるように甘く、そしてなんだかほっとする味だった。
「…ところでよ。兄ちゃんはお嬢のコレかい?」
浅葱の隣に座った男が、酒で鼻っ柱を真っ赤にして、親指を立ててみせる。
意味もわからず浅葱が首を傾げると、紅が盆を投げつけ、男の鼻っ柱に命中させた。
「うがっ」
「下世話なことを言うな。浅葱はわしのオトコではない。その先の橋で、ゴロツキ共に絡まれているところを助けただけだ」
(そうか…、親指立ては恋人のことを指すのか…)
浅葱が変なところで感心してこそっと親指立てを真似すると、他の男達も面白がって「女はコレよー!」と小指を立てて見せてくれた。
ふむふむと頷いて、今度は小指を立てて見せる。その浅葱の素直な様に、男達は愉快そうに笑った。
「ははは。面白い兄ちゃんだな。しかし気ィつけなよ。この辺じゃ最近、人攫いが出るらしいからな」
熱燗をくいっと飲み干して、そう話を振るのは最初に声を掛けてきた男だ。
「「人攫い?」」
紅と浅葱の声が重なる。
二人が興味を示したのが嬉しいのか、男は「おうよ」と頷いて身を乗り出した。
「なんでもよ、攫われんのは美男美女ばっかって噂だぜ。兄ちゃんも、ついでにお嬢も気ィつけろよ。この時期は花見だってんで酔っ払い同士の喧嘩が多い。それで役人連中も手が回らねーのよ」
美男美女ばかりを狙う人攫い…。そう言われてみると、先ほどのゴロツキ共も浅葱の荷物や金品目当て、というより浅葱の容姿を気にしていたようだった。それに、他の国から来た旅人ならば、行方知れずになっても捜査されにくい。人攫いにとっては格好の獲物、というわけだ。
浅葱は湯飲みに残った飴湯を一気に飲み干し、ふうとため息を吐いた。
「人攫いが顔で獲物を選んでいるなら、連れていかれる先はどこかの金持ちの妾宅か遊郭でしょうね…」
冗談ではない。そんなところに売られてたまるか。
コトン、と湯飲みを置き、苦々しげに呟く。
「だろーなァ。ったく、嫌な話だぜ。無理やり連れてって無理やり体ァ売らせるなんざ、人のすることじゃねェ!」
まったくだ! と頷く男達。浅葱も心の中で同意して、ふと難しい顔をしている紅に気付いた。
「…検非違使は何をやっているのだ…」
(え…?)
「おっと、そろそろ仕事に行かねーとな。お嬢、兄ちゃん、またな」
男達は頼んでいた酒を綺麗に飲み干し、また荷物片手にがやがやと出て行った。
残された紅は、まだ眉をしかめたまま、不機嫌そうに毒吐く。
「さっきのゴロツキ共、逃がさず捕らえていればよかったな。ちっ、胸糞悪い。この都でかような悪さをするとは…」
「紅?」
「放ってはおけん。人攫い共を捕まえて、まとめて役所へ放り投げてやる」
(…紅にならできそうだと、思ってしまえるから怖いよな…)
とんでもなく強い少女は、軽くそのくらいのことやってのけそうだ。
しかし、もう自分には関わりの無いこと。この店を出てしまえば、この広い都の中、もう出会うことも無いだろう。
「…それじゃあ、俺もこの辺で。今日は世話になった。ありがとう」
席を立ち、飴湯の代金を…、と腰に手をやったところで、浅葱の動きがぴたりと止まる。
「どうした?」
(…まさか…)
路銀はすべて、腰に下げた巾着に入れていた。それが、巾着ごと無い。
帯に結んでいた紐の先が切られている。恐らく、人通りの多い場所を通った時スリに盗まれてしまったのだろう。
浅葱は路銀を盗られたことよりも、今の今までそれに気付かなかった自分の間抜けっぷりに落ち込んだ。