最終話、そして新たな始まりの物語
広大な火の都を一望する空中に、朱雀帝の住まう南の内裏がある。
南の国を守護する四神、朱雀の力で内裏一帯が空に浮かんでいるのだ。
そしてその奥。後宮に隣接する春宮の在所に、朱雀帝が一人の客を伴って訪れていた。
家出から帰って以来、ずっと宮に籠って塞ぎこむ愛娘のご機嫌伺いのために。
「ほら公主よ、そなたの望みの太刀が出来上がったぞ? 此度のことはこの父が悪かった。ほれこのように謝るから、その可愛らしい顔を見せておくれ」
絢爛豪華な赤と緋色の衣を纏い、絹のような漆黒の長い髪をいくつもの金の簪で結い上げ、見る者が思わず凍りつくような美貌を誇る朱雀帝は、そう愛娘に語りかける。
今は春宮としての衣を纏い、父である朱雀帝と対になる二色の瞳を外に向けたまま、紅はただため息を吐くばかり。家出から帰ってきてもう一月になろうというのに、ぼうっと空を見つめてばかりいるのだ。
「…うるさい…。太刀を置いてとっとと出ていけ…」
「そなたが太刀にも懐柔されんとはのう…。一体家出先で何があったのだ? 公主。まさかとは思うが、男か? のう、どう思われる? 西の帝よ」
どこか楽しむ風情で忍び笑いを浮かべ、朱雀帝が隣に立つ男に話を振る。
「さあて…、どうでしょうねぇ…」
藤色の髪を結い上げ、瞳を隠していた前髪も後ろに流し、品の良い翡翠と白の衣を纏うその男は雪藤だ。
彼こそが、西の国を統べる帝、白虎帝である。その藤と碧の双眸が、ふふっと愉快そうに細められた。
「綺麗な少年と、一緒に居たようですが…」
そう意味ありげに雪藤が言うと、朱雀帝は上機嫌で手を打つ。
何しろこの娘ときたら、今の今までちっとも色恋沙汰に縁がなかったのだ。
「ほう! さすがは我が娘。この父を見慣れておるせいで目が肥えているからな」
並大抵の者では目に入るまいと、そうのたまう朱雀帝に、紅が思わず振り返る。
「うるさいわ馬鹿め! 下種な勘ぐりをしおって!! この自意識過剰親父が!!」
そんなんだから母宮に嫌われるのだ! と紅が言えば、なにを言うかあれが中宮の愛情表現だと朱雀帝が言い返す。
「ハッ、もう何月も母宮に会うてもらえぬくせに」
「おやおや。家出ばかりの馬鹿娘は知らぬかもしれんが、中宮は今持病を患っておる。故に会えぬだけよ。文のやりとりは今も日に十は下らんぞ」
「知らぬは馬鹿親父だけだ。母宮のそれは仮病だぞ。現にわしの所へはもう何度もお渡りになっている。文とて女官に字を真似させ、書かせているのだ」
「なにっ!?」
突然勃発した親子喧嘩に、雪藤はやれやれと肩をすくめる。
「その分だと何故母宮が会うて下さらんのかもわかっておらんだろう。わしの所へ戯言を言いに来る暇があったら、とっとと母宮に土下座でもしに行くがいい! わしは馬鹿親父の相手をしている暇はないのだ」
今回の事件で、己の無力さ、至らなさを知った。
自分は自惚れていたのだ。自分には、人攫い事件くらい軽く解決できるものと思っていた。が、結局自分がしたことはただ浅葱を巻き込み、傷つけたことだけ。
事件は放っておいても、解決していたのだ。
帝である雪藤が自ら、自分の宮から流出した西宮曼珠沙華の行方を追っていた。そしてそれが火の都の遊郭に運び込まれたことを突き止め、朱雀帝に協力を仰ぎ手勢―検非違使の一部―を借り受けて自ら遊郭に客として潜入した。
順調に情報や証拠を集め、捕縛に踏み切る手前で紅が乱入してきたのだ。
自分が関わらなくても、事件はいずれ解決していた。
その事実が、今なお紅を苦しめる。自分が余計なことをしたから、浅葱は傷ついた。自分が余計なことをしなければ…、と。
だから自分はもっと学ばねばならない。もっと武芸の腕を磨かなくてはならない。
そう思うのに、あの日別れたままの浅葱の顔が忘れられなくて、申し訳なくて。
ずっと欲しかった太刀が目の前にあっても、ちっとも嬉しくない。
心にかかった霧が、ずっと晴れないでいるのだ。
「……主上、ご歓談中の所失礼いたします」
ふいに、ずっと端に控えていた九郎が声を上げる。
彼は雪藤に貸し出された手勢の指揮を執っていた蔵人である。蔵人は帝の秘書的な役割をこなす側近だ。そして九郎は、紅の乳母の息子、つまり乳兄妹でもある。
「お客人がお見えになられたようです」
先触れの女官から来客を知らされた九郎が、その報を告げる。
やがて、数人の女官を伴ってその客人が姿を現した。
それは、青と銀の衣を纏う、空色の髪の少年。
「…浅…葱…?」
こちらに向かい、丁寧に一礼する少年。
まさか、そんな、と紅は眼を見開く。
「お初にお目にかかります。南の御方、西の御方。わたくしは青龍帝が第二子、浅葱」
そして頭を上げた浅葱は、確かに、紅に向かって微笑みかけた。
「春宮紅蓮公主様とのご縁談の件、返答に参上いたしました」
(っ!?)
浅葱が件の縁談の相手!? と紅は絶句する。
しかしそんな娘の心中など知らず、朱雀帝は上機嫌で浅葱を迎え入れた。
「おお! そうか、そなたが青龍帝自慢の息子殿か。ほれ公主。こちらがそなたの婿殿候補だぞ。若くて美しかろう」
朱雀帝は親しげに浅葱の肩を抱き、紅の近くに寄せた。
思いもかけない事の成り行きに、驚いたのは紅だけではない。
雪藤もまた「おやおや」と目を見張り、楽しそうに笑む口元を扇で隠した。
「…黙っていて、ごめん…」
浅葱は苦笑して、紅にそう語りかける。
「…見つけたんだ。父と約束した、母の形見の耳飾り…」
紅が去ってから、浅葱はまず酒楼に戻った。
すると、紅の分も浅葱の分も、すでに払いは済んでいるという。
おそらく、九郎という人が払ったのだろうと、浅葱は思った。
そして両替商に届いた金を受け取ると、すぐに母のいたという遊郭を訪ねた。
もう十何年も前の事なのに、遊郭を訪ねた浅葱の髪の色を見て、遊郭の楼主はすぐに浅葱の母の事を思い出したのだと言う。そして事情を聴いた楼主は、快く浅葱に協力してくれた。
「…とても親切な方だった。母が懇意にしていた道具商や付き合いのあった遊女達、母に仕えてくれていた禿達を紹介してくれたんだ」
それからは、遊郭の一室を拠点に方々を捜し回った。
楼主はもう南の国にいない人達の所にも、文を出して耳飾りの所在を尋ねてくれた。
そうしてようやく、見つけたのだ。
当時、母の禿をしていたという女性。身請けされてからは都の端で小さな料理屋を営んでいた女性の元に、耳飾りはあった。
青龍帝に身請けされる時、母が別れの際に落としていった物を、今生ではもう会うこともないだろう姉女郎の形見として、大切に取っておいたらしい。
女性もまた、料理屋を訪れた浅葱を見て一目で氷月太夫の子だと分かったと、涙ながらに語ってくれた。そして快く、耳飾りを譲ってくれた。「姐様もきっと、それを望んでおられます」と。
そしてその耳飾りを手に、浅葱は青龍帝の元へ戻り。
自由を勝ち取った。自らで選ぶ、己の道を。
紅は黙って、浅葱の話を聞いていた。
良かったと、心から思う。今目の前に居る少年は、初めて会った頃とどこか違う。
たったひと月の間に、彼を覆っていた諦めや憂いが綺麗に取り払われたようだった。
「今から言うことは、けして誰かに強制された言葉じゃない。それだけは、信じてほしい。俺は自分の意志で、紅との縁談を受け入れる」
そして彼は、袖から錦の袋を取り出し、それを紅に手渡した。
紐解いて中を見れば、そこには色とりどりの金平糖がぎっしり入っている。
「紅にあげる…」
「浅葱…」
「言っていただろう? あの夜に。ちゃんと相手を好きになれるかわからない結婚は不幸だって」
心の通わない結婚は辛いと、言っていた少女。
「だから紅が、俺を好きだと思ってくれたら。今でなくてもいい、何年先でもかまわない。そう想ってくれた、その時には、」
俺と結婚してください。
そう、空色の髪の少年は言った。とてもとても、美しい笑顔で。
「っ!」
紅の頬がかああっと真っ赤に染まる。
「あっ、あさっ、浅葱っ」
あのなっ! と貰った金平糖の袋をぎゅっと握りしめ、紅が言う。
「…わ、わしで…いいのか? わしはきっとこれからも女らしくなんてしたくないし、我儘も言う。武器も手放さぬ。それに…っ」
「紅がいいんだよ」
「…っ、それに…っ。好きになる…とか…、愛する…とか…、まだわからん…。浅葱のことは、好ましいと思う。だが…、夫婦のそれは、親愛の情とは違うだろう…? …わからん…のだ…」
自分は帝位を継ぐ身だ。
いずれ伴侶を迎えねばならないことは分かっていたが、当分は断り続けようと思っていた。父の言うように色恋沙汰には興味が持てなかったし、他にやりたいことがいっぱいあったからだ。
でも、
「大丈夫。俺は気が長い」
浅葱となら、ゆっくり築いていけるのかもしれない。
紅はぎゅっと、浅葱に抱きついた。
「…っ、まずは、一緒にこの金平糖、食べような…っ」
それが紅の、今できる精一杯の答えだった。
「ほどほどになら」
苦笑して、その自分に飛びついてきた少女の背をぽんぽんと撫でる。
友人同士のような、兄妹のような、そんな関係でも。
また君の側に居られるならそれでも構わないと、浅葱は思う。
しかし、そんな浅葱の肩をぽんぽんと扇で叩く者があった。
「ちょっと待ってもらえるかな? 東の若君」
雪藤が、口元に不敵な笑みを浮かべて浅葱の隣に並び立つ。
そして突然の展開に完全に置いてけぼりにされていた朱雀帝に、「ところで、」と話を切り出した。
「東の若君はまだ、公主殿の婿『候補』なのでしょう? ならば私も、名乗りを上げてよろしいかな?」
「「なにっ!?」」
雪藤の思いがけない言葉に、朱雀帝と紅の親子が揃って声を上げる。
「貴殿の御息女は実にお可愛らしい。公主殿を妻にすることができるなら、私は帝位を弟に、春宮に譲ってもかまいません」
何しろ見ていて飽きない。退屈な帝位にあるよりずっと、面白い、との囁きは、口元を覆う扇子の陰に隠された。
「いかがでしょう? 南の帝よ」
「ふっ…。ふふふふ! さすがは我が娘!! 二人の美男子から求婚されるとは…!!」
上機嫌に高笑う朱雀帝の視線が、浅葱、そして雪藤に向けられる。
「一人は青龍帝の皇子、一人は白虎帝とは…。いっそ玄武帝の所にも声を掛けてみるか?」
「~っ!!!!」
親に似たのだなあ、と上機嫌に頷いている朱雀帝。
浅葱は自分の腕の中でふるふると震えている紅に危機を感じ、さっと身を離す。
「っ…こ…んの…」
「糞親父ーぃっ!!!! いっぺんくたばれ!!!」
叫び、実父に飛びかかる紅。
朱雀帝の頭に襲い掛かり、乱暴にその簪を引き抜いては投げ捨てていく。
「んなっ! 何をするか馬鹿娘!! イタっ…っ、痛いというに!!」
髪も乱暴に引っ張られ、冗談抜きに痛いのだ。
「うるさいっ!! 馬鹿なことばかり言いおって!! それでも貴様帝か!!」
「ああ帝だとも!! そしてそなたの父親だ!!」
「貴様の血が入っているかと思うと反吐が出るわっ!!」
「何だとッ!!この馬鹿娘!! それでも我が娘かっ!! せっかく美しく産んでやったものをそのように粗雑に育ちおって…」
「産んだのは貴様ではなく母宮だろう!! ふざけたことを言うと母宮に言い付けるぞ!!」
「なにっ。それはやめろ本当にやめてくれ」
中宮に嫌われたら生きていけん!! と朱雀帝が叫んだところで、慣れた様子の九郎が「はいはいそこまでですお二方」と仲裁に入った。
ほらこれだから面白い、とほくそ笑む雪藤。
浅葱は思わず、「はははっ」と声を上げて笑った。
この騒がしい少女と自分は、いったいどんな人生を歩んでいくのだろう。
彼は生れて初めて、自分の将来が「楽しみだ」と、そう思えた。
今回も長くなりました~。
朱雀帝が好きすぎて筆が…(笑)
これにて緋色~はいったん完結です。が、番外編や続編など続いていきますのでどうぞ今後もお付き合いください。