十、解毒
雪藤に案内された先は、遊郭の端にある小さな物置部屋だった。
「ここかっ!!」
引き戸を開けようとするが、開かない。鍵が掛っているようだ。
紅はちっと忌々しげに舌打ちして、着物の裾を上げ、足を振り上げた。
バキっ! と豪快な音を立てて、戸を蹴破る。薄暗い室内に、見知った人影が倒れていた。浅葱だ。
「浅葱っ!!」
浅葱はぐったりと倒れ込んでいる。意識はあるようで、こちらに向かってゆっくりと頭を上げたが、その動作は鈍い。
「大丈夫かっ!?」
駆け寄ろうとする紅だったが、
「来るな!!」
初めて聞く浅葱の怒声に、びくっと踏み止まる。
浅葱はぜいぜいと荒い息を吐いて身を起こすと、絞り出すように「来るな…」と呻いた。
「来ないでくれ。頼むから…」
「浅葱…」
傷ついたような紅の瞳に、浅葱の表情が陰る。
「すまぬ…、浅葱…。わしが…わしが巻き込んだせいだ…」
だから浅葱は怒っているのだと、紅は思った。
自分の浅慮が彼を巻き込み、傷つけたから。
「ち…がう…。そうじゃ…なくて…」
「だが、手を差し伸べることは許してほしい。お前は、わしが助ける」
「そうじゃ…ないんだ…」
拒絶されるのも厭わず、今度こそ紅は浅葱の傍に駆け寄った。
見れば両手両足が縄で拘束され、擦れて血が滲んでいる。
腰に差していた脇差しを抜き、縄を切っていく紅。一瞬、二人の視線が噛み合う。
(浅葱…?)
ツウっと一筋の汗が浅葱の白い頬を伝う。
間近で見る彼の瞳は、熱を帯びていた。見たことも無いような、美しい、顔。
「…ごめん…」
その囁きは意外なほど近くに響いた。浅葱の唇が、自分に寄せられ…、
「はいはいそこまで」
触れるか触れないかというところで、二人の間を遮るように声が響く。
「雪藤殿!?」
雪藤はやれやれとため息を吐きながら、紅から引き離した浅葱の体を抱くように自分に寄せた。そして浅葱の顎をくいと持ち上げ、まじまじと熱に浮かされる顔を見つめる。
「ほう…、随分綺麗な少年だね。ここの連中も、案外趣味が良い」
「雪藤殿っ!!」
咎めるように紅が名を呼ぶ。
戯れはよせと、怒り顔だ。
「わかっているよ。それにしても、あの薬を盛られてよく我慢したねぇ。あれには強い催淫作用がある。小鳥ちゃんの傍はさぞ辛かったろう」
これをお飲み、と雪藤は袖から赤い包み紙を取り出した。中には小さな黒い丸薬が入っている。
「解毒剤だ」
しかし今の浅葱は手を上げるのも億劫なほど弱っている。
やれやれと雪藤がそれを自らの指でつまみ、小さく開かれた浅葱の口内に運んだ。
「っ!? ぅ…っ、が…ぁ…」
口に入れて一瞬の後、浅葱が苦悶の表情を浮かべて悶える。
「おい! 苦しんでいるぞ!?」
「ああ忘れていた。これはすごく苦いんだよ。白湯なしで飲むのは辛いだろうねぇ」
ふふふ、と浅葱の苦悶の表情をどこか嬉しそうに見つめる雪藤。
変態だ、と紅は思った。しかも、タチが悪い。
「笑い事か! …っ、あ、そうだ! これを…」
紅ははっと思い立ち、ごそごそと懐を探る。
出てきたのは、着替えた後もしっかり忍ばせていた金平糖の袋である。
その中から数粒つまんで、浅葱の口に含ませた。
浅葱は薬の苦みを打ち消すよう、ガリガリと金平糖を噛み砕いた。
そうしてようやく、落ち着いたようにほっと力を抜き、弱々しくも紅にそっと微笑みかける。
もう大丈夫だと、言うように。
「良かった…。すまん、浅葱。全てわしのせいだ」
ばっと床に手をついて、頭を下げる紅。
しかし浅葱は責めるでもなく、その頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「頭を上げてくれ…」
「浅葱…」
あのどうしようもない熱が引いていくのを感じながら、浅葱が言う。
「お前のせいではない。自分から望んだことだ。それに、ちゃんと約束、守ってくれたろう?」
必ず助けに来てくれると。
そう言って、浅葱はこの上なく綺麗な顔で微笑った。
優しい、穏やかな眼差し。先ほどの熱の籠った瞳にはどきりとしたけれど、自分はこの表情の方が好きだと、紅は思った。
「…俺も、お前に不埒な真似をせずにすんで良かった…」
「あ、浅葱…」
唇を寄せられたことを思い出して、珍しく紅の声が上擦る。
「君達、いい加減私を無視するのはやめてくれないかな…?」
コホン、とわざとらしく咳をして、雪藤がいう。
そう言えばこの人は誰なんだろうと、浅葱は首を傾げた。
「ああ、忘れていた。浅葱、この方は別件でこの遊郭を調べていたところを行き合った。分け合って素性は話せんが、信用はできる」
「私の事は雪藤と呼んでおくれ、少年。この先の裏口から逃がしてあげるから、君達はもう行きなさい。じきに検非違使がここを包囲するからね」
紅に、「もう目的は達したろう?」と雪藤は言う。
しかし紅は、「ハッ!」と不敵に笑った。
「逃げるだと? 馬鹿な。浅葱を酷い目に合わせた奴らに、一矢報いねば気が済まん!」
相変わらず好戦的な紅です。
一応次でクライマックスです。