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朝倉壮真

私―村田美桜は、人混みの少し外に立っていた。

市役所前の広場は、夜だというのに昼間のように明るい。

テレビ局のライトが何本も立ち、白く強い光が選挙事務所の看板を照らしている。

人が多い、では済まなかった。

ざわめきは絶えず、誰かの声が遠くで上がるたびに、空気が小さく揺れた。



私は、その熱気の中で、ただ前を見ていた。

広報課に配属されてから、政治の現場を間近で見る機会は増えた。

だが、こんな空気は初めてだった。



何かが決まる直前の、人が一斉に息を潜めるような高揚と緊張が、広場全体を覆っていた。

腕章を付けたスタッフがせわしなく動き、報道陣がカメラの位置を直し、マイクがいくつも並べられる。

誰もが前だけを見ていた。

私も同じだった。



こんなに人を集めるのか。こんなに期待されるのか、と思った。

そして、その期待の中心にいる男は、まだ姿を見せていない。

それなのに、もう空気を支配していた。


二十八歳で市長選に勝つ。

私はまだ半分信じられずにいた。

若い政治家ならいる。

――だが、市長だ、市のトップだ。

地元ではずっと「異例」「最年少」「時代が変わる」と騒がれてきた。


年寄りにも若者にも受ける。

保守にも改革にも、うまく入り込んでいるらしい。

そんな人間が、本当にいるのかと思っていた。



そのときだった。

事務所の奥で、急に歓声が上がった。

誰かが叫んだ。

「当選確実!」

その一言が、広場の空気を一気に割った。

拍手が爆発する。

人が、前へ前へと押し寄せる。

「おめでとうございます」

「やった」

「すごい」

「本当に勝ったんだ!」

そんな声が重なり合って、何を言っているのか分からない。

フラッシュが一斉に光る。

私は思わず目を細めた。

事務所の扉が開く。



スーツ姿の男たちが笑顔で前に出て、次々と誰かと握手を交わす。

「良かったですねえ。一安心です」

年配の支持者が、涙ぐみながら頭を下げ、両手で誰かの手を握りしめる。

地域住民の代表が、「やりましたな」と興奮気味に、何度も繰り返していた。

祝いの言葉が飛び交う。

握手、握手、また握手だった。

肩を叩く者、深々と頭を下げる者、目を潤ませる者。

――たった一人の当選で、周囲にいる人間すべてが、自分たちも勝者であるかのような顔をしていた。



そこに、遅れて一人の男が現れた。

――朝倉壮真、二十八歳。

若い。

圧倒的に若い。

周囲にいる五十代、六十代の男たちの中に立つと、なおさら若さが際立つ。

だが、不思議と浮いてはいなかった。

若いのに、軽く見えない。

そのことが、私には少し不気味だった。



「朝倉さん!」

「おめでとうございます!」

「新市長!」

朝倉は、笑顔を浮かべた。

誰かが握手を求めると、すぐに、手を伸ばした。

相手の目を見て、短く、迷いなく言葉を返す。

「ありがとうございます」

「お力添えのおかげです」

「ここからです」

一人一人に、ほとんど同じ温度で接しているように見えた。

それなのに、握手をした相手は皆、自分だけを見られたような顔をしていた。



小島正敏が近づいてきた。

副市長になると噂されている男だ。

小島は、わずかに口元を緩めた。

「おめでとうございます、朝倉市長」

右手を差し出す。

朝倉は笑って、その手をしっかりと握った。

「ありがとうございます。力を貸してください」

勝った側の人間の言葉なのに、相手を立てているように聞こえる。

長田敬一も前に出てきた。

地元中堅企業の社長で、選挙中から朝倉に近いと噂されていた男だ。

顔を真っ赤にして笑っている。

「やりましたな、朝倉さん。いやあ、時代が変わりますよ」

朝倉は、嬉しそうに目を細めた。

「変えていきましょう。一緒に」

その一言だけで、長田の顔がさらに緩む。

沢田武志もいた。

地域支援NPOの代表として、選挙中も何度か名前が出ていた男だ。

穏やかな顔をしていた。

「本当に、おめでとうございます。期待しています」


朝倉は頷いた。

「ありがとうございます」

一拍置いて、

「困っている人を、ちゃんと支えられる街にしたいです」

その言葉を聞いた周囲が、沸き上がる。

私は、少し驚いた。


朝倉の少し後ろに、一人の女性が立っていた。

妻だ、とすぐに分かった。

前に出すぎないが、引きすぎてもいない。

上品で、柔らかい色の服を着ている。

笑顔も控えめで、胸元の小さな真珠が印象的だった。

カメラは、何度もその姿を抜いていた。


朝倉が誰かと握手をするたびに、彼女はわずかに会釈をする。

支持者の年配の女性が声をかければ、丁寧に頭を下げる。

若い夫を支える落ち着いた妻。

言葉にしなくても、その構図が一瞬で伝わる。


やがて、壇上へ上がるように促す声が飛ぶ。

支持者たちが道を開ける。



カメラが一斉に向く中、朝倉は再び軽く頭を下げてから、ゆっくりと前へ出た。

その瞬間、広場は不思議なくらい静かになった。

さっきまであれだけ騒がしかったのに、もう誰も余計な声を出さない。


朝倉は、マイクの前に立つ。

妻はその少し後ろで止まる。

小島、長田、沢田らも後方に並ぶ。


絵が整っていた。

「ありがとうございます」

朝倉が口を開く。声は大きくない。

だが、よく通る。


広場の後ろまで届く声だった。

「まず、感謝を申し上げます」

朝倉の一言で、広場の空気が引き締まる。

「今回の結果は、私一人の力ではありません」

そう言ってから、後ろにいる人々の方を振り返る。

「ここにいる皆さん」

「そして今日ここに来られなかった多くの方の力です」

拍手が起きる。

「二十八歳の市長が誕生する」

言葉が、一つずつ短く切れていく。

「異例だと言われてきました」

広場がまた少しざわめいた。


自分で言うことではない。

けれど、不思議と嫌味には聞こえなかった。

「異例です」

朝倉は、そこで一度、軽く笑った。

「私も、そう思います」

笑いが起きて、場が和む。

「ただ異例だからこそ、意味があると思っています」

声の調子が変わる。

少しだけ強くなる。

「若さは、飾りではありません」

「変える力です」

喉の奥が、わずかに詰まった。

「今回の選挙は、特別な意味を持っていました」


前列だけでなく、後ろまで視線を動かす。

私は、その視線が一瞬、自分の方をかすめた気がした。

「この街を、どうするのか」

一度、言葉を置く。

「変えるのか。守るのか」

「私は、変えることを選びました」

私は、拍手をするのも忘れていた。

「ですが」

朝倉は、すぐに続ける。

「変えるというのは、壊すことではありません」

一瞬、静かになる。

「守るべきものは守る。そして、前へ進む」

また拍手が起きた。

さっきより、ずっと大きい。


「困っている人を、取り残しません」

私は、その言葉に息を呑んだ。

「分かりにくいことは、分かりやすくします」

「見えないものは、見えるようにします」

前列の年配の女性が、何度も頷いていた。


朝倉は、その反応を急かさない。

少し待ってから、朝倉は後ろを振り向いた。

「家族にも、感謝しています」

その一言で、妻に視線が集まる。

彼女は少し驚いたように笑い、それから静かに頭を下げた。

フラッシュが増える。



誰が見ても、好感を持つ場面だった。

若くて、爽やかで、言葉が分かりやすい。

隣には、前に出すぎない妻がいる。

新しい時代の市長。

そんな見出しが、そのまま浮かぶようだった。

「ここからがスタートです」

朝倉は力を込めた。

「期待していただいて構いません」

ざわめきが走る。

自信のある言葉だ。


「結果で返します」

深く頭を下げる。



広場が揺れるほどの拍手が起きた。

名前が飛ぶ。

「朝倉!」

「新市長!」

「頼むぞ!」

握手を求める手が、また一斉に伸びる。

朝倉は壇上を降りると、すぐにその輪の中へ入った。



年配の支持者の手を両手で包む。

若い人たちも、詰めかけている。

スタッフの肩を軽く叩く。

小島と短く言葉を交わし、長田に笑顔を向け、沢田にも同じ温度で礼を言う。

相手が誰でも、声の温度が変わらなかった。

「よろしくお願いします」

朝倉は、最後にそう言って頭を下げた。



拍手が、止まらない。

歓声が、もう一度上がる。

名前が、何度も呼ばれる。

「朝倉!」

「朝倉市長!」

気が付けば、私は朝倉を追いかけていた。

でも、多くの波に押し戻される。



朝倉壮真という男の言葉は、綺麗に収まりすぎている気がした。

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