9 影
チナに手を引かれて教室を出たあと、私はしばらく深呼吸をした。
「エマちゃん、大丈夫?」
「……うん。助かったよ、ありがとう」
「任せて! エマちゃんを一人にしないって決めたから」
その言い方が、少し誇らしげで、くすぐったい。
「このあと、オリエンテーションだって。校内見学と、避難経路とかの確認」
「……うん」
鐘が鳴る。私たちは流れに乗って、講堂へ向かった。
講堂では、生活指導の話や校内の約束ごとが淡々と続いた。
私は配られた「一年生用案内」の冊子を指でなぞりながら、ぼんやりと耳を傾ける。
火の扱いは寮の厨房のみ、夜九時以降の外出は禁止、来客はエントランス受付で。
――森にいたときは、約束ごとなんてなかった。
自由で、目立つことさえなければ大丈夫だった。
少し窮屈。でも、恐ろしいほどに安心する。
「この後は各クラスで施設見学に移ります。班は“席の隣同士”で。迷子にならないようについてきてね」
担任のアレン先生が発表すると、私の心臓がまたひとつ跳ねた。
隣――グレイ。
前の方では、チナの隣のシュンが「お、俺らペアか!」と明るく言い、チナは「よろしくね!」と笑っていた。
私は立ち上がり、そっとグレイの隣に並ぶ。
彼は短く頷いただけで、歩き出した。
最初は講義棟。続いて実習棟、保健室、購買部、食堂。先生の説明が途切れない。
私はメモを取りたかったけど、歩きながらだとうまく書けず、頭の中で必死に覚えようとした。
「次は図書棟。静かに入ってね」
厚い扉が開くと、冷んやりとした空気が流れ出した。
身長よりも高い本棚が規則正しく並び、古い紙の匂いが広がる。
森とは違う匂い。けれど、ここも静かだ。
私の好きな静けさ。
「一年生はまず一階だけ。歴史・生活・地理の基礎資料が中心。所蔵目録はここ」
先生が指差した案内台の脇で、マリが小さくため息をついた。
「一年は自由に書庫に入れないのね」と、少しだけ不満げに。
「今はだめ。年度末に見学の抽選があるから、その時にね」
アレン先生は柔らかく笑った。
私は案内台に近づき、目録の「アティラ王国史」の棚番号を追う。
足が勝手にそちらへ向かった。引き寄せられるみたいに。
“魔女事件”と書かれた分厚い本と目が合う。
手を伸ばした瞬間、横からすっと別の手が伸びる。グレイだった。彼は本を引き抜いて、黙って私に手渡した。
「……ありがとう」
「……落とすと大きな音がする」
必要最小限の言葉。でも、それで充分だった。
私は本を胸に抱え、近くの閲覧机に置く。
ページをめくると、当時の木版画が現れる。
王冠、開放日、人の列、そして――黒衣の女。
「っ……!」
絵の中の女の顔は潰されていて、表情が分からなかった。
けれど、刺すような視線だけは、確かにあった。
私に向けられている、と錯覚するほどに。
(見ちゃだめ。……でも)
グレイが隣に立ったまま、何も言わない。
逃げ道を塞ぐでも、覗き込むでもなく、ただそこにいるだけ。ページの片隅に、薄く擦れた文字が見えた。
『――記録欠落』
そこだけ、紙が剥がされたみたいに白い。私は指先で縁をなぞって、すぐに手を引っ込めた。
震えていた。手を見られたくなくて、膝の上に隠す。
「……こういうの、苦手?」
「得意じゃない……かも」
「なら、閉じたらいい」
グレイの声は、冷たく聞こえるのに、不思議と追い詰めない。私は深呼吸をして、本をそっと閉じた。
「ありがとう」
彼は何も言わず、本を棚へ戻した。その仕草がやけに丁寧で、私は小さく頭を下げた。
その時、背後から硬い声がした。
「へぇ。触ったの、それ?」
振り向くと、マリが腕を組んで立っていた。琥珀色の瞳が、私とグレイを順番に刺す。
「一年生は“閲覧”だけのはずよ。扱いには気をつけなきゃ」
「棚から出すのは閲覧のうちだ」
グレイが淡々と返す。マリはふっと笑って、今度は私だけを見る。
「あなた、試験……受けた?」
心臓が止まりかけた。息を吸うのを忘れ、喉がきゅっと鳴る。言葉が出ない。
「マリ、その話はここじゃ――」
チナが慌てて近づいてきた。息が上がっている。走って来たのだ。
「噂になってるの。受けてないのに合格した子がいるって。……単なる噂なら、それでいいんだけど」
言いながら、マリは私の胸元――名札に目を落とす。私は俯いた。チナが一歩、私の前に出る。
「エマちゃんは、ここに“合格して”来てる。これ以上は失礼だよ、マリさん」
言い切った声が震えていないのが、少し不思議だった。私の代わりに、チナが立っている。私は拳を握る。グレイは何も言わない。
ただ、わずかに身体をこちら側へ寄せた。さりげなく、でも確かに“数”を増やすように。
沈黙を切ったのは、別の声だった。
「おい、図書棟で喧嘩はナシな」
シュンがひょいと間に入る。軽い調子。けれど目は笑っていない。
「続きはグラウンドで……って冗談だって。先生来るぞ」
ちょうど廊下の方から先生の足音が近づいてきて、マリは肩をすくめると、手を軽く振って去っていった。
肩の力が抜ける。チナが私の手を握ったまま、小声で「大丈夫?」と訊く。私は小さく頷いた。
「……ありがとう。二人とも」
グレイは無言。けれど、わずかに頷いた気がした。シュンはぽりぽり頬を掻いて笑う。
「いや、俺は何も。……ごめんな、さっきは、無神経だった」
「……ううん」
本当はまだ、少し怖い。でも、謝られて、否定する言葉しか出て来なかった。
見学の最後に、先生は図書棟の受付に寄って、私たちに貸出カードの作り方を教えてくれた。私は名前を書きながら、さっきの白い欠落のことを考えていた。記録がないのか、消されたのか。どちらにしても、真ん中が抜け落ちたままじゃ、何も分からない。
(知りたい。でも、怖い)
私の中の“もう一人”が目を覚ます気がして、手が汗ばむ。
チナは私の肘をつついて、口だけで「あとで甘いもの」と言った。私はこっそり笑う。甘いもの。
うん、それはきっと、効く。
夕方、寮へ戻ると、廊下が柔らかい橙色に染まっていた。
部屋の前まで来て、足が止まる。
ドアの下に、薄い封筒が差し込まれていたからだ。王国の紋章――アティラの獅子が、封蝋にくっきりと。
「え、なにこれ……」
隣にいたチナが身を乗り出す。
私は封を切る前に、一度だけ深呼吸をした。
震える指で、蝋を割る。中から、一枚の紙。
達筆な黒いインクが、ゆっくり目に入る。
『一年一組 エマ殿
明朝八時、図書棟・地下記録室へ来られたし。
——王城教育長 アリシア=アティラ』
息が詰まった。
アティラ。王族。教育長。
頭の中で言葉だけが反響する。
「……エマちゃん」
チナの声が、すぐそばで震えていた。
私は手紙を握ったまま、目を瞬かせる。
「……行くしか、ないね」
自分の声が、やけに遠くに聞こえた。
「一人って書いてるけど……入口まで、絶対一緒に行くからね!」
チナの言葉に、私はゆっくり頷いた。
窓の外は、変わっていき、群青に沈みはじめている。夜が来る。明日が来る。
ドアの向こうの廊下で、誰かの足音が止まった。
ノックの音。私はびくりと肩を跳ねさせる。
「失礼。エマ殿のお部屋は、こちらでよろしいですか?」
落ち着いた女性の声。扉越しでも、よく通る。
「……はい」
「お手紙は届いておりますね。明朝、遅れなきよう。——教育長より、確かに、と」
「……分かりました」
「では、良い夜を」
足音が遠ざかる。私とチナはしばらく黙ったまま、封筒を見つめた。心臓の音が、やけにうるさい。
チナが息を吸い、吐く。
「エマちゃん。怖かったら、手、握ってていいからね。明日も、ずっと」
「……うん。ありがとう」
私は、そっとチナの手を握った。温かい。とても、温かい。
それでも、胸の奥で別の熱がくすぶり続ける。
よく分からないけど、知りたくて仕方がない熱。
明日の八時。図書棟の地下。
私は、もう一度手紙を見て、小さく呟いた。
「……アリシア、教育長」
チナが私の顔をのぞき込んで、こくりと頷いた。
「大丈夫。——行こう」
「うん。行こう」