表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔女は静かに暮らしている  作者: 七凪亜美
第二章 一年生編
9/27

9 影

 チナに手を引かれて教室を出たあと、私はしばらく深呼吸をした。


「エマちゃん、大丈夫?」


「……うん。助かったよ、ありがとう」


「任せて! エマちゃんを一人にしないって決めたから」


 その言い方が、少し誇らしげで、くすぐったい。


「このあと、オリエンテーションだって。校内見学と、避難経路とかの確認」


「……うん」


 鐘が鳴る。私たちは流れに乗って、講堂へ向かった。



 講堂では、生活指導の話や校内の約束ごとが淡々と続いた。

 私は配られた「一年生用案内」の冊子を指でなぞりながら、ぼんやりと耳を傾ける。

 

 火の扱いは寮の厨房のみ、夜九時以降の外出は禁止、来客はエントランス受付で。


――森にいたときは、約束ごとなんてなかった。

 自由で、目立つことさえなければ大丈夫だった。


 少し窮屈。でも、恐ろしいほどに安心する。


「この後は各クラスで施設見学に移ります。班は“席の隣同士”で。迷子にならないようについてきてね」


 担任のアレン先生が発表すると、私の心臓がまたひとつ跳ねた。

 隣――グレイ。


 前の方では、チナの隣のシュンが「お、俺らペアか!」と明るく言い、チナは「よろしくね!」と笑っていた。


 私は立ち上がり、そっとグレイの隣に並ぶ。

 彼は短く頷いただけで、歩き出した。



 最初は講義棟。続いて実習棟、保健室、購買部、食堂。先生の説明が途切れない。

 私はメモを取りたかったけど、歩きながらだとうまく書けず、頭の中で必死に覚えようとした。


「次は図書棟。静かに入ってね」


 厚い扉が開くと、冷んやりとした空気が流れ出した。

 身長よりも高い本棚が規則正しく並び、古い紙の匂いが広がる。

 森とは違う匂い。けれど、ここも静かだ。

 私の好きな静けさ。


「一年生はまず一階だけ。歴史・生活・地理の基礎資料が中心。所蔵目録はここ」


 先生が指差した案内台の脇で、マリが小さくため息をついた。

「一年は自由に書庫に入れないのね」と、少しだけ不満げに。


「今はだめ。年度末に見学の抽選があるから、その時にね」


 アレン先生は柔らかく笑った。


 私は案内台に近づき、目録の「アティラ王国史」の棚番号を追う。

 足が勝手にそちらへ向かった。引き寄せられるみたいに。


 “魔女事件”と書かれた分厚い本と目が合う。


 手を伸ばした瞬間、横からすっと別の手が伸びる。グレイだった。彼は本を引き抜いて、黙って私に手渡した。


「……ありがとう」


「……落とすと大きな音がする」


 必要最小限の言葉。でも、それで充分だった。

 私は本を胸に抱え、近くの閲覧机に置く。


 ページをめくると、当時の木版画が現れる。

 王冠、開放日、人の列、そして――黒衣の女。


「っ……!」


 絵の中の女の顔は潰されていて、表情が分からなかった。

 けれど、刺すような視線だけは、確かにあった。

 私に向けられている、と錯覚するほどに。


(見ちゃだめ。……でも)


 グレイが隣に立ったまま、何も言わない。

 逃げ道を塞ぐでも、覗き込むでもなく、ただそこにいるだけ。ページの片隅に、薄く擦れた文字が見えた。


『――記録欠落』


 そこだけ、紙が剥がされたみたいに白い。私は指先で縁をなぞって、すぐに手を引っ込めた。

 震えていた。手を見られたくなくて、膝の上に隠す。


「……こういうの、苦手?」


「得意じゃない……かも」


「なら、閉じたらいい」


 グレイの声は、冷たく聞こえるのに、不思議と追い詰めない。私は深呼吸をして、本をそっと閉じた。


「ありがとう」


 彼は何も言わず、本を棚へ戻した。その仕草がやけに丁寧で、私は小さく頭を下げた。


 その時、背後から硬い声がした。


「へぇ。触ったの、それ?」


 振り向くと、マリが腕を組んで立っていた。琥珀色の瞳が、私とグレイを順番に刺す。


「一年生は“閲覧”だけのはずよ。扱いには気をつけなきゃ」


「棚から出すのは閲覧のうちだ」


 グレイが淡々と返す。マリはふっと笑って、今度は私だけを見る。


「あなた、試験……受けた?」


 心臓が止まりかけた。息を吸うのを忘れ、喉がきゅっと鳴る。言葉が出ない。


「マリ、その話はここじゃ――」


 チナが慌てて近づいてきた。息が上がっている。走って来たのだ。


「噂になってるの。受けてないのに合格した子がいるって。……単なる噂なら、それでいいんだけど」


 言いながら、マリは私の胸元――名札に目を落とす。私は俯いた。チナが一歩、私の前に出る。


「エマちゃんは、ここに“合格して”来てる。これ以上は失礼だよ、マリさん」


 言い切った声が震えていないのが、少し不思議だった。私の代わりに、チナが立っている。私は拳を握る。グレイは何も言わない。

 ただ、わずかに身体をこちら側へ寄せた。さりげなく、でも確かに“数”を増やすように。


 沈黙を切ったのは、別の声だった。


「おい、図書棟で喧嘩はナシな」


 シュンがひょいと間に入る。軽い調子。けれど目は笑っていない。


「続きはグラウンドで……って冗談だって。先生来るぞ」


 ちょうど廊下の方から先生の足音が近づいてきて、マリは肩をすくめると、手を軽く振って去っていった。


 肩の力が抜ける。チナが私の手を握ったまま、小声で「大丈夫?」と訊く。私は小さく頷いた。


「……ありがとう。二人とも」


 グレイは無言。けれど、わずかに頷いた気がした。シュンはぽりぽり頬を掻いて笑う。


「いや、俺は何も。……ごめんな、さっきは、無神経だった」


「……ううん」


 本当はまだ、少し怖い。でも、謝られて、否定する言葉しか出て来なかった。




 見学の最後に、先生は図書棟の受付に寄って、私たちに貸出カードの作り方を教えてくれた。私は名前を書きながら、さっきの白い欠落のことを考えていた。記録がないのか、消されたのか。どちらにしても、真ん中が抜け落ちたままじゃ、何も分からない。


(知りたい。でも、怖い)


 私の中の“もう一人”が目を覚ます気がして、手が汗ばむ。

 チナは私の肘をつついて、口だけで「あとで甘いもの」と言った。私はこっそり笑う。甘いもの。

 うん、それはきっと、効く。



 夕方、寮へ戻ると、廊下が柔らかい橙色に染まっていた。

 部屋の前まで来て、足が止まる。


 ドアの下に、薄い封筒が差し込まれていたからだ。王国の紋章――アティラの獅子が、封蝋にくっきりと。


「え、なにこれ……」


 隣にいたチナが身を乗り出す。

 私は封を切る前に、一度だけ深呼吸をした。

 震える指で、蝋を割る。中から、一枚の紙。


 達筆な黒いインクが、ゆっくり目に入る。


『一年一組 エマ殿

 明朝八時、図書棟・地下記録室へ来られたし。

 ——王城教育長 アリシア=アティラ』


 息が詰まった。

 アティラ。王族。教育長。

 頭の中で言葉だけが反響する。


「……エマちゃん」


 チナの声が、すぐそばで震えていた。

 私は手紙を握ったまま、目を瞬かせる。


「……行くしか、ないね」


 自分の声が、やけに遠くに聞こえた。


「一人って書いてるけど……入口まで、絶対一緒に行くからね!」


 チナの言葉に、私はゆっくり頷いた。

 窓の外は、変わっていき、群青に沈みはじめている。夜が来る。明日が来る。


 ドアの向こうの廊下で、誰かの足音が止まった。

 ノックの音。私はびくりと肩を跳ねさせる。


「失礼。エマ殿のお部屋は、こちらでよろしいですか?」


 落ち着いた女性の声。扉越しでも、よく通る。


「……はい」


「お手紙は届いておりますね。明朝、遅れなきよう。——教育長より、確かに、と」


「……分かりました」


「では、良い夜を」


 足音が遠ざかる。私とチナはしばらく黙ったまま、封筒を見つめた。心臓の音が、やけにうるさい。

 チナが息を吸い、吐く。


「エマちゃん。怖かったら、手、握ってていいからね。明日も、ずっと」


「……うん。ありがとう」


 私は、そっとチナの手を握った。温かい。とても、温かい。


 それでも、胸の奥で別の熱がくすぶり続ける。

 よく分からないけど、知りたくて仕方がない熱。


 明日の八時。図書棟の地下。


 私は、もう一度手紙を見て、小さく呟いた。


「……アリシア、教育長」


 チナが私の顔をのぞき込んで、こくりと頷いた。


「大丈夫。——行こう」


「うん。行こう」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ