8 少しの違和感
「それじゃあ、授業を始めるわよー」
自己紹介が終わり、少しの休憩を挟んだ後、アレン先生の軽快な声が教室に響くと、全員が一斉に机に教科書を開いた。
“アティラ王国の歴史”。
金の縁取りがされた厚めの本が、パタンと一斉に開かれる音が、まるでこの国の重みを表しているようだった。
私はそっと視線を下げ、教科書の最初のページに目を落とした。
「じゃあまず、第一章――“三百年前の真実”からね」
先生の言葉に、教室が一瞬静まった。
「えっと、じゃあここは……グレイ、読んでくれる?」
先生は手元にある座席表を見ながら、視線を本人に移す。
隣で静かに座っていたグレイが、わずかに眉を動かしながら立ち上がった。
教科書を見下ろし、淡々とした声で読み始める。
「三百年前、アティラ王国の第十七代王・セルフィ=アティラが、王都の開放日に謎の女に襲撃され、命を落としかけた事件が起きた――」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がじんと痛んだ。
(……知ってる。けど、知らない)
グレイの落ち着いた読み上げは、まるで当事者ではない誰かが、過去を他人事として読んでいるようだった。
でも、私はこの出来事を、“物語”としては受け取れなかった。
教科書の挿絵には、王の玉座に現れた黒衣の女の姿。
その目は怒りに燃え、片手には炎、もう片方の手には氷のような魔力を宿していた。
「その女は“魔女”と呼ばれ、以降、この国における災厄の象徴として語られることになる――」
グレイは最後まで読み切ると、無言で座った。
(魔女……)
記憶の奥底で、何かがくすぶる。
けれど、それが何なのか、まだ霧がかかったままだ。
「じゃあ次、エマ」
「……はいっ」
立ち上がると、心臓がまたバクバクと鳴り出した。
読んでいる文章の意味は頭に入らず、ただ文字を追うだけ。
だけど、ふと途中の一文で、目が止まった。
「なお、魔女の正体や目的については、現在もはっきりとした記録が残っておらず――」
私は一瞬、声が詰まった。
(……記録が、ない?)
だったら、どうして“魔女”と決めつけられているんだろう。
どうして“殺されそうになった”なんて断言できるんだろう。
「……以上です」
自分でも分からないまま、なんとか読み切って席に座る。
グレイは一度こちらをちらりと見たけど、何も言わなかった。
その後も授業は淡々と進んだ。
マリはスラスラと読み、チナは少し噛みながらも明るい声で読み上げていた。
シュンは、どこか誇らしげに、魔女討伐の記述を読んでいた。
「この魔女討伐軍の筆頭隊長こそが、俺のご先祖様だったんだってさ!」
得意気にそう言って、ちらりとチナに目をやる。
チナは「すごーい!」と笑っていたけど、私は、黙ったままノートを取るふりをして下を向いた。
(……そのご先祖様が、私の“記憶”に出てきた兵士……)
目を閉じると、今にでもまた記憶が流れて来そう。
胸の中がざわざわと落ち着かない。
自分でもまだ、魔女の正体を知らない。
けれど、討伐された“魔女”の中に、自分が関係しているという確信だけはあった。
突然、ガタリと音がした。
チナが立ち上がり、手を挙げる。
「先生っ、質問いいですかー?」
「あら、どうぞチナさん」
「なんで魔女は、王様を襲ったんでしょうか?」
教室が少しざわついた。
「記録がないって言うけど、本当は何か事情があったんじゃないかって、思ったりして……」
先生は少し黙ってから、ゆっくりと答えた。
「そうね……そう思う人も中にはいるかもしれないわ。ただ、当時の記録のほとんどは混乱の中で失われたの。だから、真実は今となっては誰にも分からない。だけど、私たちは歴史から学ぶことが大事。これからの授業でも、いろんな角度から見てみましょうね」
「はーいっ!」
チナは明るく答えて、また席に戻った。
その姿を見て、なんだか少し、安心した。
誰かが、私と同じ疑問を持ってくれている。
それだけで、教室の空気が少しだけやわらかくなった気がした。
けれど、授業が終わっても、シュンはなんとなく私の方をちらちら見ていた。
目が合いそうになると、私は急いで目をそらした。
(……なんだろう。見透かされてるみたい)
魔女を殺した兵士の子孫。
その血が、今も彼の中を流れている。
そして、私の中にも――“魔女の記憶”が流れている。
それだけで、距離ができてしまう。
でも、それでもきっと、私はここで暮らしていく。
逃げることは、もうできない。
鐘の音が鳴った。
「それじゃあ、次の授業の準備してね~」
アレン先生がそう言って、教室から出ていく。
その直後だった。
「おーい、エマだよな?」
声がして、背後を振り返ると、シュンが立っていた。
さっきの誇らしげな笑顔は消えて、少し真剣な顔つきだった。
「ちょっと、話さねぇ?」
その一言に、私は言葉を詰まらせる。
(なんで……私に?)
彼の目は、私の目をまっすぐ見ていた。
何かを知っているような。
何かを問いかけているような。
ざわざわと、心の中が揺れる。
「え、あ……」
その時、ふいにチナが私の手を取った。
「エマちゃんは今忙しいの! また今度にしてくれる?」
シュンは一瞬驚いた顔をしてから、ふっと笑った。
「……そっか。じゃあまたな」
そう言って、軽く手を上げて離れていく。
私は、チナの手を握り返した。
そのぬくもりが、今は何よりも心強かった。