6 はじまりの合図
私は、長い間ひとりで生きてきた。
森のなかで、木々のざわめきと小鳥のさえずりだけを相手に、静かに暮らしてきた。
それは私にとって、怖くない世界だった。
でも今、私は沢山の人の中にいる。
「緊張する~! 制服かわいすぎるよね? エマに似合ってる!」
隣でチナがはしゃぐ声が耳に届く。
自分でも驚くほど、心臓がどくんどくんと音を立てていた。
——私、今、本当にここにいるんだ。
寄宿舎学校。
今年できたばかりの、新しい学び舎。
王国の未来を担う者たちを育てる、特別な場所。
ホコリも傷も一つも見当たらない大きな建物に、大勢の足音が響く。
まさか、私がこんな場所に足を踏み入れる日が来るなんて。
思えば全ては、赤いずきんが風に飛ばされたあの日から始まったのだ。
もしもあの時、ずきんを落としていなかったら、チナと出会うことも無く、今頃私はいつものように家で編み物をして過ごしていただろう。
(本当にこれでいいの?)
本当に大丈夫なの? 私、ちゃんと二年間やっていける?
「はぁ……」
無意識にため息が漏れる。チナはそれに気づいていない様子で、楽しそうに周りを観察している。
大丈夫、きっと大丈夫よ。
**
今日は入学式当日。
制服の寸法を測る部屋は、朝から多くの新入生で賑わっていた。
チナと私は順番に案内され、真新しい制服に着替える。
紺色のジャケットに、銀のボタン。
長めのスカートには王国の紋章が刺繍されていて、背筋が伸びるような気がした。
「エマ、かわいいよ~! あ、ちょっと待って、髪ここ結んであげる!」
「……ありがとう」
チナが笑顔で私の髪を整えてくれる。
こんなふうに誰かに触れられるのは、いつぶりだろう。
心の奥が少しくすぐったい。
会場へ向かう途中、大きな掲示板が立っていた。
クラス分けが貼り出されていて、私とチナは同じ1組だった。
他の生徒たちが、自分の名前を見つけては歓声を上げたり、知らない子と自己紹介をしている。
「一緒だね! あ、あとで寮の部屋割りも見に行こうね!」
「……うん」
会場の広間は石造りの天井が高く、ステンドグラスから柔らかな光が差していた。
空気には緊張が混ざっていて、誰もが少し背伸びして見える。
私は、できるだけ目立たないように席に座る。
周囲の視線が怖くて、うつむいたまま制服の袖をぎゅっと握った。
やがて、式が始まった。
まずは、新入生代表の挨拶。
壇上に立ったのは、華やかな金髪をなびかせた少女だった。
「わたくしはマリ=フォン=クラリス。皆様と過ごすこの二年間が、有意義な時間となりますよう、心から祈っております」
自信に満ちた声。
堂々とした所作。
拍手が起こる中、マリはこちらをちらりと見て、ふっと冷たい笑みを浮かべた気がした。
次に、王族の登場。
広間の扉が開かれ、次期王であるレイン王子が姿を現す。
栗色の髪。整った顔立ち。まっすぐな眼差し。
その瞬間、何故だか私は顔を上げて、彼と目が合った。
一秒。
それとも、もっと長く?
どきん、と胸が跳ねる。
私が視線をそらすと、レインは穏やかな笑みを浮かべて、演台に立った。
「皆さん、ようこそ。アティラ王国の未来を担う皆さんが、ここでたくさんのことを学び、出会い、悩み、成長していくことを願っています」
その声には、王子という肩書きを超えた、誠実さがあった。
***
入学式が終わると、生徒たちはそれぞれの寮へと移動した。
寮は、学校の敷地内に建てられた大きな建物で、二人部屋が基本。
チナと私は無事同じ部屋になった。
「うわぁ〜! 広いし、ベッドふかふか! エマ、今日からここが私たちの城だね!」
「城、うん……そうだね」
部屋の窓からは、校庭の木々が見えた。
荷物といっても、私は必要最低限しか持ってきていない。
森の家のように、自然に囲まれた場所ではないけれど、ここで暮らしていけるだろうか。
でも、チナが隣にいる。
それだけで少し、心が落ち着く。
明日からは授業が始まる。
知らない人たちと過ごす日々。
私はこの場所で、ちゃんとやっていけるだろうか。
やっぱり怖い。
正直、あの合格証書を手に持った日から、緊張と不安、そして少しの後悔が大きくて寝れない日もあった。
……でも、逃げたくない。
そう思えたのは、きっとチナのおかげ。
でも、やっぱり不安かも。
いや、ダメ。大丈夫よ、私。
チナと同じクラス、同じ部屋。恵まれている環境。
チナがいれば、私は大丈夫。
そして、もうひとつ。
——あのとき、目が合ったレイン王子の、あのまっすぐな瞳。
あの視線が、私の中の小さな火を、灯してくれた気がした。
***
――さて、ここで少し、語り部に戻りましょう。
静かな森の奥で、ひとり暮らしていた少女は、ついに世界へと一歩を踏み出しました。
寄宿舎学校。
それは、ただの学び舎ではありません。
ここで過ごす二年間が、彼女にとってどれほど大切なものになるか……
まだ、誰も知りません。
けれど、そのはじまりの鐘は、たしかに鳴りました。
新しい友達。
新しい場所。
そして、新しい運命。
物語は、静かに、でも確かに、動き始めたのです。