5 手のひらの未来
試験当日、私は朝からそわそわしていた。
行かないつもりだった。何度もそう思った。何度も心に言い聞かせた。
けれど、私は今、町の中央広場の近く、木陰のベンチに座っている。
理由は簡単だった。
「お願い、エマちゃんだけでも来て。私、試験の前ってすごく緊張するタイプで……見てくれてる人がいるだけで、安心できるの」
チナにそう言われたのだ。あのまっすぐな瞳で見つめられたら、断る理由なんて見つからなかった。
私は赤いずきんを深く被り、視線を伏せたまま、試験会場を見つめていた。
大きな門の向こうでは、寄宿舎学校の試験が始まっている。
年齢が近そうな若者たちが並び、名前を呼ばれるのを待っていた。
チナの姿も見える。緊張しながらも笑顔を絶やさず、手元の受験票をぎゅっと握っている。
(がんばれ、チナ)
そう思ったそのときだった。
「……試験、受けないのかい?」
突然、隣から声をかけられて、私はびくっと肩を跳ね上げた。
横を見ると、そこにはひとりの老人が座っていた。
灰色のひげに深いしわ、丸眼鏡をかけ、腰を曲げたその姿は、どこにでもいそうな“おじいさん”だった。
「い、いえ……私は、ただ……」
私はとっさに視線をそらした。怪しい人ではなさそうだったけれど、こんなときに話しかけられるとは思っていなかった。
「おぬし、名前は?」
チナと話す機会が多いからか、私は反射的に「え……あ、えっと、エマです」と名乗ってしまった。
深い後悔に襲われるが、今更遅い。
おじいさんは、私の名前を何度か小さく呟きながら長いひげを撫でる。
「ほぉ、エマ。おぬしはこの国に、どうなってほしいと思うかね?」
その問いに、私はまた驚いた。どうして、そんなことを。
「……分かりません」
「……そうかい」
しばらく沈黙が続いた。
でも、なぜか私は、そのあとでこう言っていた。
「……できれば、住んでいる人が、皆、幸せに暮らせる国であってほしいです」
おじいさんは、ほんの少しだけ口元をほころばせた気がした。
「ありがとう。そういう言葉を、聞きたかったのかもしれない」
そして、おじいさんは立ち上がり、ゆっくりと去っていった。
私は何が起きたのか分からず、ただ呆然と彼の背中を見送った。
門の向こうから、大きなチャイムの音が聞こえる。
近くの木々が揺れ、足元の落ち葉は踊るように舞った。
その日の夕方、王城の片隅にある小部屋。
そこには、仮面とマントを脱ぎ捨てた若い女性がいた。
「ふふ、やっぱり面白い子だった」
――レインの姉、アリシア。
王室直属の教育長にして、仮装が趣味の変わり者。今日の老人姿も、もちろん彼女の趣味である“変装”だった。
彼女は机に座りながら、採点表の束をめくっていた。
「チナ・ルーエ、合格……そして……」
彼女はそっと、白紙の名簿の端に、一つの名前を書き加える。
『エマ』
それは、試験を受けていないはずの少女の名前だった。
「ねえ、レイン。ちょっと変な子がいたのよ。目を合わせようとしないけど、すごく優しい目をしてた。なんだか、気になっちゃって」
アリシアは、隣で書類を読んでいた弟に、いたずらっぽく笑いかけた。
「えっ、もしかしてまた変な推薦? 姉さん、そういうの多いから……」
「今回は特別。だって、彼女は“自分の言葉で”国のことを語ったのよ」
レインは少し驚いた顔でアリシアを見つめた。
「名前も知らない子が……? 試験を受けてないんだよね?」
「名前は、エマって名乗ってたわ。でも、たぶん、また会うことになるわよ。城の外でも、城の中でも」
アリシアは意味深に笑いながら、ペンを置いた。
――数日後。
私は、家の前でチナの声を聞いた。
「エマちゃーん! 合格したよーっ!」
勢いよく扉を開けると、そこには紙を握りしめたチナが立っていた。
「ほら! ほらこれ見て! 私、寄宿舎学校、合格したの!」
「……よかったね!」
本当にうれしかった。私のことを誘ってくれたあの子が、ちゃんと夢への一歩を踏み出したのだ。
二年間の寄宿舎学校での生活。次会えるのは、学年が切り替わる前の休み期間かな。
約一年間。チナと会えなくなると思うと、正直胸が痛くなる。
自分でも、こんな感情もつの不思議だと思っている。
だけど、それくらいチナは私の人生に彩を与えてくれた人物……。
きっとチナなら社交性もあるし、大丈夫だろう。
仲のいい友達を見つけて、楽しい生活を送って……。
(私のこと忘れないでいてくれたらいいな)
「でもね……」
チナの表情が急に曇る。
「今日ね、家に帰ったら、ポストに“これ”が入ってたの」
そう言って差し出されたのは、一枚の紙。
チナが見せてくれた合格通知の紙。
いや、名前の部分にはっきり“エマ”と書かれている。
それは、私宛の合格通知だった。
「……え?」
「私、すぐわかったよ。あのときの会場にいたってことは、もしかして……何かの特別枠で推薦されたのかもって。誰かが見てくれてたんだよ、きっと」
私は、言葉を失った。
試験を受けていない私が、どうして。
思わず何度も見返した。でも、確かにそこには、私の名前があった。手書きで書き加えられたような、少しだけにじんだ文字で――。
「私、すっごくうれしい! エマちゃんと一緒に行けるなんて、奇跡だよ!」
チナは笑っていた。でも私は、笑えなかった。
心の中に、じわじわと広がる不安。
魔女の血を持つ私が、王の近くにいるような場所に行くなんて――本当に、許されるの?
それでも、チナが、こんなにうれしそうにしてくれているのに……。
私は、静かにうなずいた。
「……うん。行ってみる」
小さな声だったけれど、チナは満面の笑みで私の手を握った。
「やったああああ! 絶対楽しいよ、きっとすごく素敵な毎日になるよ!」
私は、何も言わずにうなずいた。
でもその笑顔の奥で、心はざわついていた。
不安と、恐れと、それでも、チナといることのほんの少しの……希望。
**
ときどき、運命というものは、不思議な形をして、私たちの前に現れます。
受けるはずのなかった試験。名乗るはずのなかった名前。選ばれるはずのなかった少女。
でも、誰かの言葉が、誰かの記憶に残って。
その一言が、風を動かし、扉を開き、物語を動かすこともあるのです。
赤いずきんを被った少女は、まだ知りません。
自分が、かつてこの国を揺るがした“あの血”を引く者であることも。
そして、再び、この国の運命に触れることになるということも――。
それは、ほんの始まりの一歩でした。