4 花と糸
チナが家に来るのは、すっかり当たり前のことになった。
朝も昼も、花を摘んだり、お菓子を焼いたり、町で仕入れた小さなニュースを持ってきたり。
チナの存在は、森の静けさに少しずつ色を加えていった。
「今日の町、いつもより人が多かったよ。なんか、学校の説明会があったんだって!」
お茶を飲みながら、チナがそんな話をしたのは、ある曇りの日のことだった。
「学校?」
「うん、寄宿舎学校。今年できたばっかりらしいよ! 十九歳の人を対象にしてて、合格したら城の近くで二年間勉強できるんだって」
私は一瞬、心臓が小さく跳ねるのを感じた。
――城。
その言葉には、私の中のどこかがざわつく音がした。
「国のこととか、王族のこととか、兵士になるための訓練とかもあるんだって。卒業後は城で働ける人も多いらしいよ」
私は黙ったまま、湯気の立つお茶に目を落とした。
「エマちゃんも、一緒に受けない?」
「……なんで、私が」
「だって、すごく素敵だと思うよ。エマちゃんみたいな人が、国の未来に関わってくれたら」
「……私、そんなの無理」
私は首を横に振った。こんな私が、王族に関わるなんて。
もし、魔女の血があるって知られたら、きっと――。
「私は、ずっとこの森にいる。誰にも見つからないように。ここが、私の世界だから」
そう言った私に、チナは少しだけ寂しそうな顔をした。
でも、すぐに笑った。
「……そっか。でも、私は受けてみようかな。なんか、わくわくするんだよね」
チナの瞳はまっすぐで、まるで空のように澄んでいた。
「説明会でもらった紙、置いてくから。見なくてもいいよ。でも、気が向いたら……読んでみて」
チナはそう言って、一枚の紙を机の上に置いて帰っていった。
私はそれを手に取らず、ただ、じっと見つめていた。
次の日、私は森を歩いていた。木々のざわめきの中、頭の中ではずっとあの紙のことが渦を巻いていた。
寄宿舎学校。
十九歳の男女。
二年間、城の近くで生活。
卒業後は、城や政府の関係者として働ける。
私は、そんな未来を望んでいたわけじゃない。
だけど――もし。
(もし……私が、普通の人間だったら)
そんな考えが、ふと、胸をかすめた。
そのときだった。
突然、木々の間から誰かの声がした。
「……なあ、それマジで受けんの?」
それは男の声だった。低くて、どこか軽い響き。
「当然。私は合格するわよ」
もうひとつの声。女の子だ。自信に満ちた、上から見下ろすような口調。
私は思わず、木の陰に身を隠した。
足元には、リスが不思議そうな顔をしながら私を見上げている。
視線を少し前に戻し、二人の姿が見る。
一人は、短く刈った黒髪の男の子。制服のような服を着ていて、首に布を巻いている。
もう一人は、金色の巻き髪を揺らす女の子。上等そうなワンピースに、きらびやかなブローチ。
「こんな学校、落ちるほうが不思議でしょ。親が政府関係者なんだから」
その言葉に、私は息を呑んだ。
名前は知らなかった。でも、何かが告げていた。あの子が、後に私の運命に深く関わることを。
「ま、俺は受かる気ないけどなー。とりあえず親がうるさいし」
「そんな軽い考えの人間が受けるなんて、本当に腹立つわ」
二人は私の隠れている木のすぐ近くを通りすぎていった。私は、気配を殺してその場にじっと立ち尽くした。
ああ、やっぱり、私は関わるべきじゃない。
そう思ったはずなのに。
その日の夜、私はチナが置いていった紙を開いていた。
そして――胸の奥に、なにか熱いものが、じんわりと広がっていくのを感じた。
(もし、私が、普通の子として……あの世界に入れたら。そしたら、何かが、変わるのかな)
でも、それはただの幻想だった。
私は、魔女の血を引いている。
この世界で、もっとも触れてはいけない過去を抱えている。
――なのに。
指先が、そっと、紙の隅をなぞった。
まるで、誰かに背中を押されるように。