2 赤い届け物
翌朝、私はいつも通り早くに目を覚ました。
鳥たちのさえずりが木の葉を揺らし、朝の霧が淡く差し込むこの家は、変わらず静かで、優しい空気に包まれていた。
けれど、昨夜のことが心に引っかかっていた。
――赤ずきん。あれが無いと、町にはもう行けない。人の目が怖いのだ。
じっと見つめられることも、すれ違いざまに視線を感じることも、ずっと、苦手だった。
もう一枚、似たようなずきんはあるけれど、やっぱりあのずきんは特別。
だって初めて自分の手で縫い合わせた布。
お守りみたいな存在。
「はぁ……仕方ないよね……」
私はそう呟いて、朝の支度を始めた。
スープを煮て、小さなパンを焼いて、いつものように外へ出て、木々に朝の挨拶をして、それから、家の前の花壇に水をやる。
そんなときだった。
――トントン。
戸をたたく音。森の奥では珍しい、人の気配。
私はびくっと肩を震わせた。
誰……? 町の人? もしかして……衛兵? いや、そんなはずは。私の家の場所を知っている人なんて、いないはず。
私は恐る恐る、扉を開けた。
そこにいたのは、見知らぬ女の子だった。
年は私と同じくらい。いや、少し幼いようにも見える。栗色の髪をふわりと三つ編みにして、頬はりんごのように赤くて、どこか楽しそうな笑顔を浮かべていた。
「おはよう! これ、落とし物!」
そう言って、女の子は――私の赤ずきんを差し出した。
私は、目を見開いた。
「あ、え、……ど、どうして……」
「昨日、町のはずれで拾ったの。赤くて、かわいい布だったから、きっと誰かが探してると思って。ちょうどこのあたりに足跡があって、もしかしてって思って森に入ったの!」
そんな、簡単に……この家に来られるなんて。
私が言葉に詰まっていると、彼女はにこにこと笑って、手を差し出してきた。
「私、チナっていうの。お花屋の娘! あなたの名前は?」
「……エマ」
気づいたら、名乗ってしまっていた。
――しまった、って、思ったけれど。チナはその名前を聞いた瞬間、ぱっと笑顔を咲かせた。
「エマちゃん、かわいい名前! この家、すごく素敵ね。木の感じとか、葉っぱの飾りとか、童話に出てきそう!」
私は戸口に立ったまま、何も言えずにいた。どうしたら帰ってくれるだろう。
追い返すには……でも、悪い子じゃなさそう。いや、そんな問題じゃなくて……!
「……あの、わざわざありがとう。でも、もう帰ったほうがいいと思う。森の中、危ないし……」
「うん、わかった! でもまた来ていい?」
「えっ」
「私、こういうの好きなの。森とか、小屋とか、静かな場所。エマちゃんともっと話してみたいなーって思って」
そう言って、チナは本当にうれしそうに笑った。そして、手を振って、森の中の道を帰っていった。
私は、赤ずきんを胸に抱きながら、扉を閉めた。
もう、誰にも知られないで生きていこうと思ってたのに。
心の中で、ふと、木の葉が風に揺れるような感覚がした。
私は、赤ずきんを胸に抱えたまま、しばらく扉の前から動けなかった。
胸の奥が、ざわざわしていた。
誰かが訪ねてきたのなんて、何年ぶりだろう。いや、私がここに住んでから初めてかも。
人とこんなふうに会話したのも、たぶん……初めてかもしれない。
「チナ」っていう子。
にこにこしてて、明るくて、悪気なんてなさそうだった。
でも……。
「もう来ないでくれたら、いいのに」
そんなことを思ったはずなのに。
私の手は、まだ、チナから返された赤ずきんを、やさしく撫でていた。
**
森の奥に、小さな揺れが生まれました。
それは、風のように静かで、雨粒のようにささやかな、けれど確かな変化。
ずっと閉ざしていた扉の向こうに、
「チナ」という名前の光が、ひとつ、差し込んだのです。
さてさて、このふたりの出会いが、どんな物語を紡いでいくのか。
それは、まだ誰も知らない、小さなおとぎ話の続きなのでした。