第07話 始まりの転身
──なんとか抑え込めたと言ってもいいだろう。
アビスドレイクが放った謎の魔法に対し『聖剣』をぶつけることで、双方の力は拮抗し対消滅した。
しかし……ロクス自身は無事とは言えなかった。
ただの直剣に戻った剣先を地面に突き立て、杖替わりにしながら体重を支える。
傷はない。しかし、全身には重たい疲労感がまとわりついていた。荒い息を繰り返しながら、自身の体力が着実に摩耗し続けるのを感じる。
「はぁ、はぁ……っ、聖剣を使って、これとはな……っ」
ロクスが見つめる先では、アビスドレイクが天への咆哮を響かせていた。
今の一撃を放っても尚、奴の動きに衰えは見受けられない。想像以上の怪物である。
(あいつ、下手すれば魔王よりも……!)
久しく感じていなかった敗北の可能性が脳裏をよぎり、かつての魔王との戦いが記憶に呼び起される。
少なくとも純粋な力比べなら……肌感にはなるが、この魔物は魔王よりも上であった。 " 魔物の王 " である魔王よりも、だ。
到底、一人で相手取るべき敵ではない。許されることなら万全の準備を整えて仲間と共に立ち向かうべき強敵だ。
孤立無援の現状がいかに無茶な行いか、奴との戦闘を継続するほどに実感してくる。
(こんなことなら、無理にでも仲間を連れてくるんだったな……)
しかし、後悔先に立たず。
悔やんだところで取り返しはつかない。何としてもこの魔物はここで討伐しなければならない。
背筋を伸ばし、二の足で体を支えて剣を構える。
これ以上の弱音は吐いていられないだろう。心の中で闘志を燃やし、ロクスは再び戦闘態勢に移った。
「こいつは……骨が折れるな」
切っ先越しにアビスドレイクを睨みつける。奴もまた、ロクスが生きている以上その警戒を解く気配はない。
獲物を狙う妖しい眼光が光る。それを一身に受けつつも、ロクスは真っ向から対峙した。
再び闘争が始まる。
ロクスは自ら一歩を踏み出し───その時であった。
視界の外から飛来する、一本の矢。
アビスドレイクにとっても警戒の外からやってきたその一矢は───奴の右目へ飛んだ。
ブチュッ、という嫌な音が鳴る。
それは、何の変哲もないシンプルな矢がアビスドレイクの右目へ突き刺さる音だった。
「───!」
流石の化け物も、眼球を潰された痛みには分かりやすく怯んでみせる。
ロクスは反射的に矢の飛んできた方向へと振り向いた。
「勇者さん! すぐに逃げましょう!」
その先に、矢を射った体勢で固まっていたのは……たった一人の女の子。
櫻羽いろはがその場に乱入した。
急いで放った矢はものの見事に魔物の右目へ命中した。
イロハ自身、遠くからそれを狙えるほど弓矢の扱いがうまいわけじゃない。放った矢をほんの少し『魔法』で補正して、無理矢理命中させたのである。
アビスドレイクが痛みで仰け反りながら後退している隙に、イロハは急いで勇者の元へ駆け寄った。
当のロクスは呆然としながらこちらを見ていたが、しばらくしてはっと我に返った。
「な、なんで戻ってきた!? 早く逃げろ!」
近寄ってきたイロハに大慌てで叫んでくる。
彼からしてみれば逃がしたはずのか弱い冒険者がノコノコ死ににきたようなものなので、気持ちは分かる。だがイロハも譲れない気持ちがあった。
「逃げるなら勇者さんも一緒です! ほら、今のうちに!」
「なに言ってるんだ!? こいつを放置してはおけない! 俺が戦っている間にさっさと逃げてくれ!」
ロクスの表情はひどく困惑していた。目の前の少女がなぜすぐに逃げないのか、本当に意味が分かっていない様子。
ここで戦えるのは自分だけ。だから殿を務めて当たり前だと、これっぽっちも自らが戦うことに疑問を抱いていない。
だがイロハはそれに対して物申したかった。
そういう考え自体が、少し気に食わなかった。
「あなただって私たちと同じ人間なんですから! カッコつけて変な無茶しないでください!」
「……!」
真っ直ぐな言葉を受けた青年の目が──大きく見開かれる。
イロハにしてみればそれは当たり前のことを口にしただけ。しかし、言葉を受け取ったロクスは何を感じたのか、驚きの表情で動きを止めてしまう。
その隙にそそくさと歩み寄って彼の手首を掴んだ。
「さぁ! 早く行きましょう!」
「……いっ、いや! 駄目だ! 奴を放っておいたら必ず他の被害が……っ」
しかしロクスはなかなか納得せずに首を横に振る。責任感か義務感か、それは定かではないが易々と動いてはくれそうにない。
しかも、そうしている間にアビスドレイクが再び動き出す。
急に熱を感じてイロハとロクスは同時に振り向く。その先で、体勢を立て直したアビスドレイクが大口を開けていた。
熱源の正体は奴の喉の奥で集束する紫の炎だ。
何をしようとしているのかは容易に想像ができる。
直感が告げる。確かに、ここにいたら危険だ。
「またさっきのブレスか……!」
即座に判断したロクスは、イロハの手を振り払って前に躍り出る。
彼は空いた手を前方に突き出すと力強く叫んだ。
「≪ウォール≫!」
その詠唱と共にロクスの手の前に小さな魔法陣が浮かび上がり、半透明の丸い障壁が二人のことを隙間なく覆った。
この世界における守護の魔法だ。
彼はこの場にいるイロハごと、奴のブレスから守るつもりなのだ。
「────!!」
障壁魔法が構築されたのとほぼ同時。
激しい咆哮と共に、アビスドレイクの喉奥から膨大なまでの紫炎が放射された。
周囲を焼き尽くす炎の津波。激突と同時に障壁越しでも重々しい衝撃が伝わってくる。
まともに受ければ間違いなく一瞬で消し炭されていた。が、ロクスの張った魔法の壁は一切の火の粉も通さず二人の体を守る。
流石の強固さだ。
だが、ロクスの顔色が先ほどよりも険しくなっていた。
「さっきより威力がッ……! いや、俺が弱ってるのか……!!」
炎の濁流を防ぎながらロクスは歯を食いしばる。血管が浮かぶほどに力が込められた手はプルプルと痙攣していた。
よく見れば周囲の障壁もどこか不安定だ。イロハが来るまでの戦闘でかなり消耗していたのかもしれない。
──そうして目を凝らしていたことで、気づく。
イロハは急いで叫んでいた。
「前! 飛び込んでくる!」
警告の瞬間。
炎を掻き分け、アビスドレイクが突如正面に姿を現す。
自身で吐き出した火柱を吹き飛ばしながら横殴りの一撃が繰り出された。剛腕による一撃は障壁魔法を容易に打ち砕き、距離が近かったロクスへと容赦なく叩き込まれる。
「ぐっ!!」
「勇者さん!」
重厚な破砕音。
ギリギリ反応が間に合ったロクスの剣と、アビスドレイクの腕が衝突し風圧が起こる。
その体格差もあってロクスは軽々と真横へ吹き飛ばされた。
不安定ながらも何とか足から着地し、地面を削りながら滑っていく。
まともに受けたように見えたがどうにか無事のようだ。
──しかしこの状況。真に危惧すべきはイロハ自身であるということに、気づくのが一瞬遅れてしまう。
「……ッ、駄目だ! 逃げろ!!」
ロクスの警告が届く。──アビスドレイクは、殴り飛ばしたロクスではなく眼前のイロハを注視していた。
視線が合う。
(あ。これやば、)
危機感を自覚した時には、すでにアビスドレイクの腕がイロハを狙って動き出していた。
反応はできるはずもない。
大きく開かれたその手に、イロハの華奢な身体が捕らえられる。
「んぐぅっ!?」
自然と呻きがもれる。イロハの胴体よりも太い五本の指が全身に食い込み、容赦なく締め上げる。
身動きが一切取れない中で内臓が圧迫され、呼吸もうまく通らない。脳が危険信号を発する。
「ぐ……っ、ぅ……!」
奇しくも先ほどの冒険者と同じ状況。このままだと握り潰されて終わりだ。
だが、唯一助けてくれる可能性のあるロクスは視界の隅。イロハの体を潰すのと、彼がここまで駆け寄るのとではどちらが早いかなど明確だろう。
自分で、何とかしなければならない。
でなければ……死ぬ。
(できれば……使いたくなかったけど……!)
絶体絶命の状況を前にイロハは決意する。
誰かに見られる場所で『力』を使うことへの懸念はあるが、命には代えられない。
ここに戻ってきたのはイロハの判断。自分のミスは自分で返す。
アビスドレイクの手中に囚われながら──イロハの唇が薄く開かれた。
「……≪転身≫!」
一言、彼女が呟いた瞬間。
右手の中指にはめられた指輪が爆発的な輝きを放つ。
イロハを掴む大きな指の隙間から光が溢れ出し──衝撃が吹き荒れた。
力の奔流はアビスドレイクの拘束を振り解き、その巨大な図体さえ後方へと退かせる。
「なんだ!?」
ロクスが顔を覆いながら困惑する。そんな彼の視線の先で……光のベールから零れ落ちるように、その少女は地面に舞い降りた。
純白の装束と桜色の髪を揺らめかせ──世界の法則すら異なる力を、イロハは全身に身に纏う。
今はもう冒険者ではない。
これは『魔法少女』。
この姿に≪転身≫さえできれば、もうか弱き少女ではない。
「姿が変わった……?」
唖然とするロクスの見る先で、キッと吊り上げた眉の下からイロハは怪物の姿を見据える。
結局、全部悪いのはこの化け物だ。 " 敵 " を認識して、イロハの中でスイッチが切り替わる。
容赦はしない。戦うことを控えていたのは冒険者の " イロハ " であって、こうなった " 櫻羽いろは " はすでに数多の戦いを経験してきたのだから。
「──────ッ!!」
≪転身≫の衝撃に吹き飛ばされていたアビスドレイクが跳ね返るようにすぐさま飛び掛かってきた。
咆哮と火の粉を撒き散らしながら、繰り出されるは剛腕による叩きつけ。
対してイロハは──足元に転がっていた斧の柄を爪先で軽く蹴り上げた。先ほど避難場所まで背負って行った男の武器が、偶然にもそこに落ちていた。
手元まで跳ね上げた斧を使い慣れた武器かと錯覚させるほどの手捌きでクルクルと回転させ、背筋は伸ばしたまま体の後ろで構える。
交差は一瞬。
頭上から迫る巨大な爪を、イロハは半歩程度の僅かなステップで躱してみせる。
何もない地面に巨大な手が叩きつけられた直後、その手首へ、振り上げられた斧が残像を描いて振り下ろされた。
ブオッ! と、強烈な風圧音。
斧の刃は一直線に吸い込まれ、鱗と、外甲と、肉を砕いて手首へ抉り込む。
大量の鮮血が撒き散らされ、アビスドレイクの苦痛の叫びが響く。
常人が同じことをしても浅く食い込む程度が関の山だろう。魔法少女による圧倒的な怪力がその破壊力を生み出す。
「いい加減に……!」
斧から手を離し、体を回しながら一呼吸。
アビスドレイクの正面へ向き直ると共にイロハの手に翼を模した弓が顕現した。──先ほどまで使っていた簡易的なものとは違う。その流線形のボディには、外敵を確実に屠るための底知れない力が宿っている。
「しなさいッ!!」
一喝。
引き絞った魔法の矢を素早い動きで解き放った。
放たれた輝きはその勢いだけで周囲にチラつく炎を残さず消し飛ばし、一直線にアビスドレイクの肩へと命中する。矢は貫通どころか、丸太ほどの攻撃範囲となってその肩を叩き潰し、抉り取る。
「─────!!」
奴の悶絶が再び響いた。肩を丸々吹き飛ばされたことでアビスドレイクの片腕はぼとりと地面に落下し、ぐちゃぐちゃになった断面から蛇口のように大量の血が噴き出す。
すでに致命傷なのは間違いないだろう。
が──アビスドレイクの眼光から闘争の意思は消えていない。あくまでもその躯体は魔物の本能に従い続ける。
アビスドレイクは残る左腕をおもむろに上空へと掲げた。
その瞬間、奴の背中に巨大な魔法陣が浮かび上がり周辺の空気が震えあがる。
直感が告げる。
今までの攻撃とは明らかに質が違う。
「まずい……! 奴にその『魔法』を使わせるな!」
答え合わせをするように、ロクスから警告の声が飛んできた。
魔物が魔法を使うだなんて聞いたこともないが……今は考えている暇もない。イロハはその場から一歩も退かず、再び弓矢を眼前に構えた。
──上等である。
その『魔法』とやらを、法則すら違うイロハの『魔法』で迎え撃とうじゃないか。
上空に大量の魔力が集積する。脈動するように鼓動を響かせ、魔力の塊は瞬く間に巨大化していく。
対し、イロハは光り輝く魔法の矢を番えた。全力で引き絞り、鋭い視線で狙いを定める。撃つべきは一瞬のタイミングだ。
「──────ッ!!」
天へと響く咆哮と同時──アビスドレイクの腕が振り下ろされ、その巨大な魔力の塊がイロハへ向けて放たれた。
莫大な規模の力を前にして確信する。先ほど、遠くまで響いてきた地鳴りの原因は間違いなくこれだ。
しかしそれがどうした。
イロハはただ、それ以上の無類の力で正面から捻じ伏せるのみ。
「≪マジカルアロー≫!!」
迫りくる驚異へ向けて──溜めに溜めた渾身の矢を撃ち放った。
矢じりが弓を離れた瞬間、マゼンタの輝きを周囲に散らしながら暴風が巻き起こる。
降り注ぐ巨大な魔力の塊と、それを迎え撃つ一筋の閃光。
両者が正面から衝突し……拮抗は一瞬であった。
突き破るのは、イロハが放った矢の一撃。
アビスドレイクが唱えた魔法を中心から捩じ切り、食い込んで、吹き飛ばす。視界の大部分を覆っていた大きな紫色の輝きは、その一矢によっていとも容易く掻き消された。
それでも尚、前へ突き進む矢は進行上にあったアビスドレイクの上半身へと突き進み──、
最期は断末魔すら残さなかった。
黒幻竜の体を突き抜け、その上半身を消し飛ばした。
体の上半分がまるっと消滅し、無常に残るアビスドレイクの下半身が重たい音を立てて崩れ落ちる。
大量の血の海に沈むその亡骸を見ても、きっと誰もがイロハ一人でやったことだとは信じられないだろう。
禁忌種の魔物が一人の少女の前で息絶える光景はそれほどまでに非現実的であった。
「う、嘘だろ……?」
静寂が訪れる中、それまでの工程を間近で見ていたロクスは驚愕の呟きを漏らす。
彼にとってもあり得ないことだった。勇者である自分が戦っても苦戦を強いられた魔物を、まさか無名の冒険者がたった一人で討伐するなんて。
それも……見たこともない魔法を使って。
「……君は一体、何者なんだ?」
困惑と、警戒と、驚きと。様々な感情で震える問い掛け。
弓矢の構えを解いて一息ついていたイロハは、思い出したかのように慌てて振り向く。
……こうなるから『魔法少女』の力を人前で使うことはずっと避けていた。
同じ『魔法』であっても根本的な部分が違うことを、イロハでなくとも気づくだろう。そこから生じる様々な面倒の可能性を案じ、誰にだって秘密にしてきたのだ。
状況的に仕方なかったとはいえついにそれが破られた。
ロクスは懐疑的な視線をイロハに注いでいる。自分の力についてうまい説明や誤魔化しが思い浮かばず、イロハは視線を彷徨わせる。
最終的に選んだ選択は──逃走だった。
「す、すみません! 私はこれで! もう無茶はしないでくださいね!」
「はっ? いや、おい! 待ってくれ!」
素早く頭を下げて即座に身を翻す。
ロクスの呼び声など平気で無視して、変身中の脚力を存分に発揮しながらイロハはその場から逃げ出すのだった。
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