『りてらちゅあっ!』⑨ 私の読書の始まり
(初出 note、2023年2月11日)
前々回のエッセイで、私が「本格読書」と名付けた購読運動については既に多くを述べた。だが、私の中学生時代以前の読書についてはまだ全てを語れてはいないはずである。こちらは伊坂幸太郎さんの『砂漠』に出会った時のような、明確な開始を思い出す事が出来ない。
などと初手から書くと、このタイトルは一体何なのだ、などと思われそうだが、少し考えてみて欲しい。
多くの方々は幼少期、親御さんから絵本を読んで貰った事があるだろう。だがいつから、それを「読書」として認識するようになっただろうか。また、いつから自主的に本を開き、「自分は本を読んでいる」という意識が萌しただろうか。
一応「ここだ」と思われる地点は、私にはある。だから今回「私の読書の始まり」として述べる事は、厳密な開始地点ではないものの、私が本をある種の「文学」として初めて捉えた頃の話とあらかじめ定義する事とする。
以下、そのつもりで読んで頂きたい(注1)。
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小学校中学年辺りから私の読書の中心となっていたのは、以前も記した通りエミリー・ロッダ「デルトラ・クエスト」シリーズだ。小学校高学年の頃には外伝も含めこれらを何度も繰り返し読んでいたので非常に印象が強いが、そこから少し遡ってみると他にも色々な作品が思い出される。
藤ダリオ「あやかし探偵団」三部作、斎藤惇夫『冒険者たち』、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』、小学校二、三年頃になるとC・S・ルイス『ナルニア国物語』、メアリー・ポープ・オズボーン「マジック・ツリーハウス」シリーズなど。
小学校入学以前、震災前後からの記憶は曖昧になってしまうのでそれ以上は遡れないが、最も古く私が「読書」をしていたもの、と考えた時、一つ強烈に思い至る作品がある。
松谷みよ子「モモちゃんとアカネちゃん」という連作だ。
祖母が知人から譲り受けたもので、私が小学校一年生の頃、毎晩寝る時に読み聞かせて貰っていたこの本に、私は非常に思い入れがある。というのも、この読み聞かせから続きが気になるようになり、自分で読むようになったのはこのシリーズが初めてだからだ。
ずっと家にあったはずだが、最近では何処にしまわれているのかまるっきり見えなくなってしまった。だが、今尚鮮明に覚えているエピソードが幾つもある。それはこの本が、児童文学でありながら戦争や死、離婚といった考えさせられるテーマの話を内包しており、それだけに子供心に強く訴えかけたからだと思う。
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私の記憶している限り、そういった”シリアスさ”は二巻目の後半辺りから現れ始めた。序盤で主役を務める話の多いモモちゃんに妹・アカネちゃんが出来る辺りだが、文筆業という仕事も持っている「ママ」はこの辺りから、育児と仕事に追われる様が顕著になる。アカネちゃんの出産間際、家を忙しく駆け回っている時に階段から落ちてしまうという場面もある。
そして同時に、一巻目と二巻目では本人の登場がそれなりにあった「パパ」の描写が帰ってくる場面だけになる。仕事の忙しさが強調される中、遂に三巻目中盤から靴だけが家に帰ってくるようになる。
その回で、私がこのシリーズ最大のシリアス要素だと思う「死に神」(注2)が現れる。死に神はママの寝床に現れ「いつか絶対に死に神が来ると思っていただろう」という内容の台詞を吐く(注3)。ママは死に神に連れて行かれそうになるが、そこでアカネちゃんが泣き声を上げ、ママは死に神の手から逃れる。今思えばこれは、ママが娘たちの事を思い出し、「まだ自分は死ねないのだ」と思ったからではないだろうか。
やがて死に神の来訪は頻度を増し、彼に魅入られたママは謎めいた「森のおばあさん」に助言を求めに行く。そこで森のおばあさんは彼女ら夫婦を木に喩え、「ママは『育つ木』、パパは『歩く木』であり、根分けをしないと共倒れになる」という助言をする。それが、両親が離婚を決めた理由だった。
後に知った事だが、この「モモちゃんとアカネちゃん」は、松谷氏自身の体験をオマージュした回がかなりあるらしい。そして、モモちゃん、アカネちゃん姉妹のモデルは松谷氏の長女、次女だという。
松谷氏は一九五三年、人形劇団太郎座の主宰・瀬川拓男氏と結婚し、共著を出したり、太郎座を共に運営したりなどの創作活動を行った。舞台やテレビで活発に活動していく太郎座だったが、やがて古いメンバーが辞め、世代交代が激しくなる。そして松谷氏は新メンバーや瀬川氏との間に隔たりを感じるようになり、離婚を決意したという。第三巻『モモちゃんとアカネちゃん』に於ける両親の離婚は、次女が「アカネちゃんのモデルは自分だから、続編が出れば何故自分に父親が居ないのか分かる」と思い、松谷氏に第二巻以降を求めた事によるものだったそうだ。
物語に於いて、アカネちゃんも成長するに連れ、何故自分にパパが居ないのかを気にするようになる。そして最終巻でママに、その話を絵本にして欲しい、と頼む。
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私は、これを読んだ当時非常にアカネちゃんに共感した。私自身、まだ一歳になって間もない頃に両親の離婚を経験しており、現在では母の実家である祖父母の家で暮らしている。
経験とは書いたが、当然のように私にその当時の記憶はない。あまりにも父が居ないのが当然の事なので、寂しいと思った事もない。だが、狼に変身してこっそりアカネちゃんを訪ねてくるパパのように、幼い頃は父が時々家に来てくれたというので、決して仲が悪くなって別れた訳ではないのだと思う。
妹の出産前後、母の体調は優れなかったらしい。母は仕事もしており、離婚はきっとモモちゃん姉妹の両親のように”根分け”だったのかもしれないと思う。いい思い出であるはずがないので、私は昔から真実を直接聞く事を躊躇い、というより遠慮しているが、いつか自分の将来の為に知らねばいけない事だろうと思っている(注4)。
情報が断片的な事から、幼い私は松谷氏のこの著書を読み、何か強く思う事があったのだろう。死に神について、今でも思い出すエピソードがある。
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その後”根分け”としてパパと離れて暮らす事になったママは元気を取り戻すが、そこに再び死に神が現れる。彼は今度はパパに付きまとっているようで、豪胆なパパと酒を酌み交わし、ピーナツに化けて飲み込まれ、心臓に「シニガミ」とサインをして命を縮めていく(これも、瀬川氏の持病であった心臓発作が元ネタらしい)。
そんな死に神がママと話す中に、死に神が現れる事となった兆候が語られる。
文筆業をしていたママは在宅勤務になった後、書き損じの紙を庭で燃やしていた。その灰の中に、同じく灰で出来た黒い不気味なキノコが現れた。これを死に神は「死を忘れている者への警告」だと言う。
多感な小学生の頃、私は死についてしばしば考えた。自分や家族が消えてしまう事を恐れ、眠れない夜などにはついこの事に考えを巡らせ、泣きそうになる事もあったように思う。
成長し、生涯はただ死に向かって歩く事ではないと、知識としてではなく理解するようになってから、そのような怖い夜はぐっと減った。だが、私は心の何処かで、あの頃の自分は自分でも気付かない間に、灰のキノコを見ようとしていたのではないだろうか、と考える。だから今でも、これ程鮮明に覚えているのではないか、と。
繰り返すが、私は両親が別の道を歩くようになった理由を、説明出来るくらいに知っている訳ではない。だが”根分け”が行われたのだとしたら、私は無意識に身近な家族が喪失の予感を抱いた事を、傍で見ていたのかもしれない。
「モモちゃんとアカネちゃん」は、そんな幼い自分の琴線に触れた事で、私の読書の始まりとなったのではないか。
自分が自主的に本を開き、「自分は読書を行っているのだ」と感じた最初の記憶を是非思い出してみて頂きたい。何故それが印象に残っているのかと考えると、当時の自分を客観的に見つめる興味深いきっかけとなるだろう。
(注1)散々はっちゃけてきたこのエッセイですが、いつになくシリアスな回です。
(注2)「死神」ではなく、文中では徹底してこの表記です。
(注3)現物がないので引用が出来なかったのです。本当は図書館で探すべきなのでしょうが、これはそういう課題レポートみたいな文章ではないので。
(注4)と、言いつつ未だに聞き出せていない私です。寂しいと思う事は今でもありませんが、昔は何か感じるものがあったのかもしれません。