『りてらちゅあっ!』⑥ 差別用語と敬語
(初出 note、2023年1月22日)
後の世代になればなる程、物書きには制約が生まれる。と、私は思っている。上手いタイトルを思いついたとしても先人が既に同じような事を考えていたり(注1)、ミステリで言えば長年掛けて考えたトリックが既に使われている事が判明したり、異世界転生も恋愛も、後になればなる程「はいはい、またいつものね」と思われてしまいがちになる。
無論、時代が進んだからこそ生まれる作品も沢山ある。ミステリで言えば交通機関の発達で事件の可能性が広がったり、トリックに新しい物質が取り入れられたり、恋愛ものならインターネットを題材にした小説も書ける。
だが、私はこれらを吟味した上でやはり、時代が経過するに連れて物書きは不利になるのではないか、と思っている。その理由の最たるもので、あらゆる物書きに普遍的に言える事が「差別用語の増殖」である。
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NHKの自主規制マニュアルをご存じだろうか。俗に「放送禁止用語」といわれるものをまとめたもので、出版界にも大きな影響を与えているらしいが、それをちらりと見た時私は愕然とした。当然のように使っていた言葉の多くが、ガイドラインの上で差別用語だったからである。
「百姓」や「乞食」など、歴史の教科書で普通に出てきた言葉である。さすがにおかしいぞ、と思い当時は信じなかったのだが、その後角川文庫で泉鏡花の『高野聖』を読んだ時、最後に書かれていた注意書きに膝を正さざるを得なかった。
「なお本書中には、車夫、盲、馬丁、手無娘、片手落、馬方、乞食、物貰、癩病坊、女中、百姓、唖、白痴、下男、不具、妾といった現代では使うべきではない差別用語、並びに今日の医療知識や人権擁護の見地に照らして不当、不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と、著者が故人であること、作品自体の芸術性・文学性を考え合わせ、原文のままとしました。(編集部)」
これを見た時、私は戦慄した。今に「物書き」という言葉も差別用語になるのではないだろうか? 大工は? キャバ嬢は? OLは? フリーターは? リア充は? ホームレスは? 田舎は? 高齢者は? 金髪は? 誰もが肩書きや身体的特徴を持っている。その一つ一つを「差別用語だ」と指摘され、そうか、自分は差別されていたのか、と思い、今まで傷付かなかった一言に傷付くようになる人が、これから先どれだけ増えるのだろうか?
だが、NHKのマニュアルもあくまで自主規制であり、私が「それは別に気にする人居ないでしょ」と思った「百姓」などはあまり重大には扱われないらしい。NHKが「のうかのおじさん」にインタビューをし、それに「こう雨が多いと俺たち百姓はね」などと返された時、そこを敢えて「ピー」と規制したりはせず、字幕でその部分だけを「農業従事者」と置き換えたりするようだ。
知らずに言葉を使い、人を傷付ければやはり罪にはなるだろう。だが、誰も気にしないような事までそう目くじらを立てて拾う必要はあるのだろうか。古いアニメやドラマだと、前時代的な設定自体が規制の対象となり現代では再放送されない、という事がよくあるらしい。事故で命を落とした主人公が異世界転生する設定も、ロボットを駆って戦う軍事ものも、この分では将来規制の対象になるのではないか。それは真に、「人を傷付けない為」なのだろうか。
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また、敬語というものもある。英語の文法を習うと実感するのだが、海外では文頭に「please」を付ければ良いだけのものが、日本では如何に複雑な文法上のルールを順守しないと「敬語」にならないものか。
それは一般常識だよ、と冷たい目で見られるかもしれない。「近頃の若いモンは敬語もロクに使えんのか」とお年寄りから言われるかもしれない。だが、これらの敬語もよく考えれば差別用語と同じではないだろうか。
相手を敬ったり、相手を差別したりするのは「言葉」ではなく、それを発する本人である。差別をなくす、年寄りを敬う、どんなに綺麗な言葉を使っても、それを発する本人に「意図」がなければそれは意味を成さない。
このままでは今に、次のような事が起こると思われる。
①「百姓」が差別用語になる→②「百姓」が「農業従事者」と言い換えられるようになる→③「農業従事者」に誰かが差別意識を抱く→④農業従事者をその誰かが「この農業従事者め!」と罵る→⑤「農業従事者」が差別用語になる→⑥「農業従事者」が「カルティベイター」と言い換えられるようになる→……
これはまだ甘い例だが、対象が身体障がい者だったらどうだろうか。今日では差別用語とされる「盲」、視覚障害者が、「視覚障害者」という言葉を苦痛に感じるようになったら、それをどう言い換えればいいのだろうか。言い換えて彼らが何も感じなくなるかと言われれば、決してそうではない。
盲の例を引き摺るが、沖縄にはブラーミニメクラヘビという動物が居る。これをNHKは「ブラーミニピーヘビ」と言い換えて放送したりはしない。この動物を通して視覚障害者に差別意識を向ける人は居ないからだ。
また「善意の差別」という事も日常的に起こっている。大きな荷物を抱えたお爺さんを心配して「持ちましょうか?」と声を掛けたとしよう。そのお爺さんは、こう返すかもしれない。
「年寄り扱いするな!」
彼にとっては、「高齢者」と思われる事が差別だった、というお話だ。ならば彼にとって、「経験豊富な年配者」という意味で「高齢者」という言葉を使っても、それは差別用語と同義にしかならないのだ。
敬語を知らずに社会に出た人が、目下の相手から敬語を使われて、「自分は敬われている」と実感出来るだろうか。また、「物書き」が差別用語になった時、これを読んでいる創作界隈の方々は「物書き」と呼ばれる事に屈辱を覚えるようになるだろうか。むしろこの場合、NHKを恨んで「余計な事をするな」と抗議したくなるかもしれない。
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私はこの文章で「NHKをぶっ壊そうぜ」などと言っている訳ではない。差別用語とか敬語とか面倒臭いからやめようぜ、という話でもない。ただ、言葉という実物の代名詞と、実物の乖離が激しくなっている現状を憂えているのだ。
昨今の報道機関や出版業界では、代用品である「言葉」を拾う事だけに躍起になり、実物を擁護しようという意識が足りないような気がする。差別されている人々が居る限り、幾ら言葉を規制しても人の意識との鼬ごっこが起こるだけだ。むしろ、言葉を発する度に「ああ、これってこの人たちを差別する言葉だよな」という隠れた差別意識を助長する事にもなりかねない。
時代が変われば、言葉の意味も変わる。何年か前までに日常的に使われていた言葉が、一部の境遇的問題を抱えている人々を表す言葉になったりする。そのような中でいたずらに子供たちに「あれも駄目、これも駄目」と言い続けたら、その子たちが大人になって百年前の文豪たちの作品を見た時、このような事になる。
「何だこの本、差別意識の塊じゃん。日本の汚点だ、こんなの燃やして、歴史の中から葬っちゃえ」
(注1)「彼女と先輩」(『スクリフェッド』収録)というお話を書いた際、最初「先輩と彼女」にするつもりが、投稿直前で南波あつこ先生に同名の有名コミックがある事を知って慌てて前後を入れ替えました。