『りてらちゅあっ!』⑤ 原稿の書き方人それぞれ
(初出 note、2023年1月11日)
私の所属するTwitter創作界隈に居る方々は、皆凄い人ばかりである。サイトを経営されていたり、雑誌に作品を寄稿されていたり、著書を出版されていたり……
私はいわゆる「日常の呟き」から始め、何となく俳句や短歌を投稿し始め、ハッシュタグを付けたら思いがけず詩作界隈に潜り込んでしまい、半ば流れで「黒揚羽」という詩を公開したらそれが伸びて、いつの間にやら物書きとなってしまった、という人間だ。今でも創作は趣味、本業は高校生で、将来は福祉に携わる技術者に、と広言しており、友人から「電子書籍でも出せばいいのに」と言われながらも
「いや……僕、作品を本にしてしまったら、趣味が仕事になって、義務になってしまう気がするんだ……ぶるぶる」
などと韜晦を続けている。私のような自称創作家(注1)の肩身が狭くなる程、界隈はスペシャリストで活気に満ち溢れ、日々素敵な作品が世に送られ続けている。
そんな方々の「日常の呟き」に、時折作品について、原稿の枚数や作品の文字数に関するものが見られる事がある。私は今までそれを何気なく読んでいたが、次第にある事に気付いて、考え込んだ。
原稿ってそもそも何だ? という事である。
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四百字詰め原稿用紙の存在を知らない人など居ないだろう。私も先の大学受験対策の時、これに嫌という程小論文を書いた。だから、「近頃の若者は原稿用紙も知らないのかねえ」などと言われる筋合いはない事を、先に明言しておく。
このnoteへの投稿スタイル(注2)をご覧になれば一目瞭然かと思うが、私の投稿している画像は「完全データ原稿」と呼ばれるものである。この言葉は最近知ったのだが、印刷所でこれを印刷すればもう製本出来る、というもので、実際にお手元の本を開いた時に目に飛び込んでくるページと寸分違わぬ形の事だ。
これは、文字数が原稿一枚と出版物一ページで同じだ。私の場合小説作品はWordで執筆しており、縦三十八字×横十六行が基本である。最初にTwitterで連載していたものはこれが十八行だったりするのだが、都合により二行削減する事にした。
私は以前、一日四ページ投稿を基本としていた。その際、一日分の投稿を行う為に必要な手順は
①完成データから四ページ分を別の文書にコピペ→②ホームタブ、段落グループの「インデントと行間隔」タブで行間を「固定値」、間隔を「15pt」に(こうしないとルビありの行の幅だけが極端に広くなってしまうのだ)→③すると一ページの行数が二倍になるので、元の文書を見ながら改ページの位置からEnterキーを連打、次のページに移す→④フッターをダブルクリックし、ヘッダーとフッターグループから「ページ番号」、「ページ番号の書式設定」の順にクリック→⑤「開始番号」を、前に投稿したページ数から一ページ分だけずらす→⑥位置を中央にすると、完成画面からはみ出してしまうので、スペースキーを連打して文章の中央に運ぶ→⑦PDF化→⑧スクリーンショット→⑨左側の空白を画像加工で切る→⑩長方形の文庫本ページのようなものが完成する
という、毎日行うには七面倒臭いでは済まない工程だった。それを、何とかならないかと思い改善した方法が現在の方法で、
①完成データのレイアウトタブ、ページ設定グループの全てのオプションを開く→②余白の上下を二十ミリ、左右を三十ミリ、幅を横一四八ミリ、高さを二一〇ミリ、ヘッダーとフッターの位置をそれぞれ五ミリと三・五ミリに→③すると文字数と行数が四十三字、六行になるので文字数を三十八に→④行間隔を15ptに。こうすると一ページの行数が自動的に十六行になる→⑤PDF化→⑥それを保存し、毎日投稿する箇所だけをスクショする
この結果、一度完成形のPDFさえ出来れば、一日分の投稿に掛かる手間がスクショだけで済むようになった。これが、十六行固定の裏事情である。
だが、ここで考えて頂きたい。
三十八×十六で一ページ=六〇八字、これは四百字詰め原稿用紙で約一・五枚分である。しかしこの数字は、文庫本一ページ、或いは原稿用紙一杯に字が詰まっていればの話だ。それは有り得ない。誰でも適宜段落分けはするし、台詞などがあれば改行する。
以前、原稿何枚という呟きを見た私は何を勘違いしたのか、Wordの原稿用紙設定を利用して小説を執筆しようと考えた事があった。その結果、段落一つ一つがやけに長く見えてしまい、改行の際も余白があまりにも少なく見え、途中から全てをカットしていつもの完全データにペーストした。すると、今度はページの下半分がまるまる余白と化していて戦慄した。原稿のまま本にする訳でもないのに、あまりに原稿用紙の体裁に囚われすぎた。
付け加えると、Wordの原稿用紙設定で書いたものをプリンターで印刷すると詰め詰めの升目にびっしり文字が入っていて、読みづらい読みづらい。元来Wordはマイクロソフト社(米国)で作られたものだし、原稿用紙設定は日本の技術者が良かれと思って付けた機能なのだろうが、一体誰が使うのだろうか。プリンターで四百字詰め原稿用紙を作るくらいしか役立たないと思うのだが。
話が脱線したが、では「原稿何枚」とは一体何なのだろうか。
私の祖父はワープロを使っているのだが、ワープロ原稿には四百字詰めの升目はない。今でも新人賞の募集規定に書かれている原稿の枚数は四百字詰めを基本としているようだが、文學界新人賞の注意事項を読んだら「ワープロ原稿の場合、A4版の紙に400字詰め換算の枚数を明記のこと」と書いてあった。しかし、私が先程述べたような、原稿用紙に書いたものをその他の書き方に置き換えた時の事を鑑みれば、原稿用紙何枚という指標はそれをダイレクトに換算したものになり得るだろうか。私は綾辻行人さんの『暗黒館の殺人』、講談社文庫の文庫本四冊分が原稿用紙二千六百枚超と言われて初めて漠然とイメージが付いた人間である。
現在、殆どの創作家の執筆のお供はワープロかPCだろう。大予言だが、近い将来、新人賞の募集規定に四百字詰めという言葉はなくなるのではないか。ゆくゆくは、原稿用紙という言葉自体が変遷するのではないか。
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一方で、作品の文字数でその規模を表す言い回しも最近よく見かける。最近とは言っても、私のTwitter上での創作歴はまだ二年にもなっていないので、この言い回しがいつから見られ始めたのかはよく分かっていないが。
蓋し、こちらは作品の規模を原稿の枚数よりもダイレクトに表している。小説家になろうやカクヨム、エブリスタ、このnoteも含まれるかもしれないが、それらに電子データとして投稿される小説の規模は分かりやすい。ただ、読書は紙媒体が主流だった私は「……」を「…」や「・・・」と書いたり、段落の頭を空けなかったり、という事が気になってしまうので、web上でも文庫本の見た目に設定した画像で小説を書く。理由は、落ち着く、というそれだけだ。(注3)
告白すると、私は中学二年生の頃から書き物をしていた。当然それは人に見せられたものではないし、当時の同級生にも家族にも、自分が創作をしているという事実すら隠していたのだが、その方法はキャンパスノートをただひたすら字で埋めていくという作業だった。ノートの節約の為、場面が変わる場所で一行空けるくらいで、あとは台詞も段落も全部一繋ぎなので、一ページに於ける文字数は現在の小説の三倍近くあったが、ノートという横書き形式や特殊記号に小回りを利かせやすいという点で言えば、当時の私が行っていた創作スタイルは、現在のなろうやカクヨムに近かったのではないだろうか。
本という形式に囚われない創作物は、原稿がそのまま作品として読者に届く、という意味では完全データに近いのかもしれない。まあこれも、編集の必要がないので、以前自分が読んだ作品に誤植があまりにも多くて閉口した理由の一環にもなり得る、という事は留意しておく必要があるかもしれない。
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私は、序盤で述べた投稿用のPDFに「○○(作品名) 原稿」というタイトルを付ける。だがこれが、本当の意味で原稿になり得ないなどと思った事はない。プロ小説家は一日に原稿を何枚書く、文字を一時間に何字打つ、と言われてもピンとこないので、私は専ら「一日に何ページ書いた」という言い方をする。
要するに、原稿の書き方は人それぞれだよ、原稿用紙何枚とかあんまり自分は気にしないよ、という事だ。だから、「近頃の若者は原稿の書き方も知らないのかねえ」などと言われる筋合いは、これまたない。
……こんな事を言ったら、新人賞募集規定の為に自身の著作を一生懸命四百字詰めに換算している方々から「うるせえ黙っとけ」と怒りを浴びそうではある。出版業界からは、「君の知らない決まりも一杯あるんだよ」と憐れみの込もった視線で見られるかもしれない。
申し訳ありません、としか言えない。(注4)
(注1)今では書き物を仕事にしても悔いはないだろうと思っています。というか、仕事にしたい。創作界隈の友人たちと本を出したのも、集英社ライトノベル新人賞に応募したのもその為です。
(注2)note時代は文庫本体裁(縦書き)の画像を投稿していました。
(注3)これは、上述の理由の他にも「コピペを防止する」という意図もあります。この「小説家になろう」への引っ越しも正直渋々ではあったのですが(笑)、まず読まれない事にはお話にならぬ。
(注4)何だか、noteからドロップアウトした今ではあまり意味のないエッセイになってしまった第5回です。けれど、今でもなろうに投稿する際は一度縦書きの文庫本体裁で書いてからコピー&ペーストして修正を加えて、という手順を踏んでいます。