『りてらちゅあっ!』③ コミュニケーションの縮小化
(初出 note、2022年12月25日)
高校生のうちに書いておきたい事ではあるが、長期休暇に入る際、集会やホームルームで教師がお約束のように話す内容が「SNSの使い方」である。肖像権や個人情報の取り扱いに関する注意は、主に”事実”によって現実に与える影響に主眼を置いているが、それとは別に誹謗中傷や、情報の真偽の不透明性から発展するトラブルについて言及される事もしばしばある。
「ネット上でのコミュニケーション」という言い方でそれらが指導されるが、私としては教師たちも、あまりこの語句の意味を深く考えていないのではないか、と疑問に思う事がある。
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新明解国語辞典を引いたところ、コミュニケーションとは「㊀通信・報道。㊁言葉による意思・思想などの伝達」と定義されていた。また、最近四月から進学予定の大学の講義で、「コミュニケーションが成立するのはどのタイミングか」という興味深い話があった。相手に情報を伝え、相手が理解した時か。それとも、理解はされなくとも、相手に言葉が伝わった時か。或いは、相手が聴いていなくても、自分から相手に向かって言葉を放った時か。
コミュニケーションとは、反復により初めて成立する、と言える。言葉はその手段やツールであり、「話す」という動作にとっての「口」に当たる。「話す事のツールも言葉じゃないの?」と思われるかもしれないが、私は言葉を、単なる言語とイコールの意味としては解釈していない。
動物言語学と呼ばれる学問分野がある。定義は厳密にあるのだろうが、内容としては文字通り、鳥の囀りやクジラの「歌」など、動物の発する音にパターンを見出し、意思疎通を図るものと言って良いだろう。動物にとっても、他の個体との関わりは欠かせない社会的規約であり、声によらずともそれは縄張りや配偶者や子供の保護、または群れの維持や配偶関係の成立にコミュニケーション手段の不可欠さを連関させるものである。
この際、彼らは体を目一杯使う。目を合わせる、或いは逸らす、姿勢を高くする、低くする、口を大きく開ける、毛を逆立てる、角を誇示する、尾を振り上げる、などなど。鳴き声にもニュアンスを込める。犬や猫を飼っている人が居れば、何となく声の調子で感情が理解出来たりする事もあるだろう。
動物の他の個体との関わりに伴う具体例を先程幾つか挙げたが、これらは皆、「距離感の掴み方」に集約されるのではないだろうか。排他的な感情を抱く相手であれば遠ざけようとするし、結び付きを強めねばならない相手とは深く交わろうとする。
人間の場合、それはビジネスに於ける渉外、入社試験や受験の際の面接、好意を持つ相手との交際を目指す時などだ。コミュニケーションは、意思や思想の相互交換により他者との距離を掴む為のもの、と言ってもいい。
面接の際、視線の合わせ方や喋り方、一挙手一投足までが見られるのは何故だろうか。告白の際、対面と勇気が求められるのは何故か。それは、先程の動物の体を使った意思の伝達と同じである。口から出る言語に限らず、言語を発している生身の人間そのものが、言葉というディスプレイの一部だからだ。
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SNS上では、声を出さずに連絡が行われる。並ぶものは文字のみだ。例えば、次のようなLINEが届いたとしよう。
「明日の放課後、校舎の裏に来てくれない?」
いつの時代だよ、と突っ込まれそうだが、今でもこういう事があったら、告白されるかボコられるかのどちらかだと思って頂いて構わない。
この送り主が、大分前から隣の席で、しばしば談笑したり一緒に遊びに行ったりしている同級生の異性だったりしたら、まず淡い期待と共に舞い上がるだろう。だが、滅多に口を利かないようなクラスメイトで、クラスグループから一方的に友だち追加されただけの相手だったら、何事かと警戒するだろう。
また、次のようなやり取りがあったとしたらどうか。
A「明日、遊びに行かない?」
B「いいよ」
Bの心情がまるで見えない事がお分かり頂けるだろうか。積極的にAと遊びに行きたい気持ちから返事をしたのか、別段断る理由もないから了承したのか、はたまた本当は行きたくないが断りにくくてこう返したのか、分からない。
「そこまで問題があるようには見えないんですが……」という意見を、まだ否定はしない。だがそれは、この二人が実際に会った事があり、LINEを遠隔地からの連絡手段として使っているという前提があっての事である。
もう少し例を挙げよう。今度は、TwitterやInstagram、Facebookなど、不特定多数対一の場合である。プロフィールに次のような自己紹介があったとする。
「藍原アイ 仙台市在住、十八歳の女子高生です。友達募集中♡ DMお待ちしてます!」
この情報の信憑性は如何程だろうか。
SNSで知り合った相手と軽々しく会うな、とは誰でも忠告される事だと思われるが、これは「知り合った」というプロセスを経由していないからだ。そこにあるのは文字列だけで、画面の向こうに居る相手を透過して見る事は出来ない。親近感が湧いた、などと距離感が掴めたような気になっても、実際には掴めていない。よって、これらのコミュニケーションツールとしての役割はかなり消極的な、言語のみに縮小化されたものと言わざるを得ない。
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ここで、冒頭の誹謗中傷や情報の真偽の不透明性に戻る。
私が所属しているTwitter創作界隈は比較的穏やかだが、2ちゃんねるやTogetherなどたまに見に行くと、必ずと言っていい程「荒らし」と遭遇する。私は最近見なくなったが、一時期YouTubeにとある顔文字三連を使いながらコメント欄を周回し、荒らすユーザーが出現した事があった。(注1)
誠に遺憾な事ではあるが、一対多、不特定多数とやり取りをするツールに於いて、これらが本来コミュニケーションという語が持つ意味を十分に果たしきれていない事実を理解しているのは、上に挙げた自称女子高生・藍原アイなどよりこのような荒らしユーザーなのだ。彼らの場合、返答も正論(この語もあまり好きではないが)も求めてはいない。ただ悪口を放ち、それが誰かに突き刺さる事を悦び、炎上させて自分が波風を立てた、環境を動かしたという事実に浸りたいだけだ。
彼らに、「ネット上でのコミュニケーション」という言い方で注意を促しても、まるで効果はないのだ。彼らは、「コミュニケーション」を行う気が端からないのだから。我々が彼らに対して出来る事は、ただ静かに通報する事だけである。
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昨今の「SNSの使い方」に関する指導では、ネット上に文字列を放つという行為を包括して「コミュニケーション」として扱ってしまっているきらいがある。大人がコミュニケーションという語の意味を、情報化社会への変遷と並列化して押し広げ、本来の在り方を見失わせるような事を言ってしまうのはどうなの? と、生意気なガキの私は考えてしまうのである。
SNSを悪者扱いしないで下さい。悪いのは、それらの存在意義を、本来の目的に合致させずに使用している一部のユーザーだけです。バターナイフで鮪を捌こうとしているようなものです。
……なんて先生に言ったら、内申点下がるかなあ。
(注1)ネット掲示板とYouTubeコメントの返信爛はもう二度と見ません。