『りてらちゅあっ!』② 読書への入口
(初出 note、2022年12月18日)
文学や国語にまつわる話を、私自身の体験を踏まえながら書くという意味で「りてらちゅあっ!」などという題名を付けたこのエッセイだが、未だに文学の定義など人それぞれだと思うので、あまり手に負えないようなテーマでは書きたくないというのが正直な気持ちである。書きたい事は色々とあるが、開かれた瞬間「何やこれ、つまらん」と思われたら元も子もないので、本日はまだ簡単なテーマで書いてみる事としよう。
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私の友人に、メダオという男が居る。ゲームや映画や写真加工が好きで、卒業後はデザインの専門学校に通うべく上京を考えているようだ(注1)。彼と私は昼休み、アニメや映画、科学や哲学、政治、中学校の思い出などを語り合い、私は一日に一度の割合で彼を抱腹絶倒させる。
そんなメダオ氏に、私が高校二年次の冬から勧め続けてきた事がある。文豪と呼ばれる、先人の作品群を読む事である。
私は以前から読書をしていたが、二年次の夏に創作を行い始め、教養を得ねばならぬとの思いからそれらを漸進的に読むよう心掛けた。とはいえ、それだけの理由ではない。
まず、私が以前から愛読していた柳広司さんや森見登美彦さんの作品に文豪の名作のパスティーシュがあり、それを読む事で「文学って面白いものかもしれない」と思った。その後、現代文の授業で中島敦「山月記」を教材として読み、「自分もこのような文章を書いてみたい」と思い、最後に朝霧カフカさん原作の『文豪ストレイドッグス』をアニメで視聴し、いよいよ自分のお金で『李陵・山月記』(新潮文庫)を買うに至った。
メダオ氏は、文章が読めない男ではない。中学時代には本屋でライトノベルを三十冊近く一気に買い、店員さんを仰天させた歴史もある。だが、私の勧めに対しての反応は芳しくなかった。単なる食わず嫌いでも趣味が合わない訳でもなく、現代に於けるライトノベル以外の作品群、教科書に載るような小説でも、語彙や表現が難しくて読めないから、という事がその理由だった。
私は彼に言った。曰く、日本語が喋れているのなら小説は読めるはずだ、ラノベとそれ以外の小説の文章の何が違う、現代は平易な文章に依存しがちな人が多すぎる、何かにつけて「ヤバい」「草」などで会話を終わらせようとする文化の弊害だ、などなど。
以前、教師が国語の授業中に「葛藤」という言葉について延々と解説し、私は「それくらい誰でも分かるだろ、早く進んでくれ」と思った事があった。だが考えてみれば、文章中ではごく自然に使われても、日常会話では滅多に飛び出さない言葉というものはある。例えば
「俺昨日駅で停留している間にコンビニに行ったらさ、長期間に渡って冀求していた漫画の単行本が店頭に陳列してあってさ、でもお小遣いが僅少で、購入するかどうか刹那の間、切実に逡巡したわー!」
などと口頭で言う人が居たら、ちょっと大丈夫か、と不安になるだろう。確かに、文章の言葉と会話の言葉は違う。文章を日頃から読んでいない人には、一般常識的な言葉でも伝わらないのかもしれない。
私は、メダオ氏が何故渋っていたか、とか、近頃の若者は云々、とか、そのような事をここで言いたい訳ではない。肝腎なのは、タイトルでも分かる通り、読書に面白みを見出すにはどうすればいいか、という事である。
これはメダオ氏の事例である。
私は、彼が私にアニメを繰り返し進めた時のように、彼に対し繰り返し読書を奨励してきた。本を読む事の楽しさ、本棚や机の周りに蔵書が増えていく愉快さ、見知らぬ語彙や表現と出会った時の高揚感などを熱弁した。上に述べたような、自身が文学に着手した時の事も話して聞かせた。
私の情熱に感化されたのか、私の文章の語彙に着いて行けない事に忸怩たるものがあったのか、彼は太宰治『人間失格』(角川文庫)を購入し、読み始めた。最近ではようやく面白みの分かる境地に入り、私にお勧めについて尋ねてきたりするようになった。
これは、布教を続けてきた私自身にも思いもよらなかった展開ではあったが、きっかけはともかく、メダオ氏が文章を読む面白さを理解した大きな要因は、自分から文章を理解しようとした、という事にあるかもしれない。
「文章を理解する」とは、書いてある言葉の意味が分かる、という事だけではない。小説の場合、描写や表現に込められたニュアンスを理解するという事だ。ストーリーだけが分かれば良いのならば、極論ネタバレを含むあらすじを読むだけで事足りる。小説を小説たらしめているものは、文章の折々に散りばめられた技巧や作者独自の表現方法、些細ながらも胸に響く叙述など、「物語」の本筋からは逸脱した場所にあるのだ。小説を読むとは、これらを紐解き、「味」を知る事なのだと思う。
一見して見慣れぬ言い回しがあったりしただけで、自分には手に負えないと諦めてしまうのは一種の思考放棄である。語彙など、今時は調べようとすれば簡単に調べられる。その上で必要なのは、ここまで来れば最早読み解こうとする意志だけだ。難しい事ではない。
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学習内容が定着しないのは教わった事を闇雲に覚えようとするから、という事は既に言旧られた台詞だろう。これは読書もまた同じであり、経験のない人が何も考えずただ上辺だけを読んでしまえば、醍醐味を味わう事は出来ないし、ただ小難しかったという印象と物語の大まかな内容しか残らない。
読書への入口は、最初に手に取った一冊の文章を噛み締める事で開かれる。
こんな事を言うと、それは「読書を楽しむきっかけは読書を始める事だ」と言っているようなものではないか、難しい本に抵抗を感じる気持ちは捨てきれない、というコメントが来そうではある。別に、読書をしなくても生きてはいけるじゃないか、とも。
それを否定はしない。だが、私の価値観や哲学を形成してきたのは常に読書であった。読書は、人生に於ける大小様々な判断や選択の指針を作ってくれるし、知らない事に触れた時、それを自分の頭で考える楽しみを与えてくれる。作り手に紡がれる幾つもの人生に重なり、限りなく内側へと深まる世界に心を遊ばせる事も出来る。これは、「読む」事を放棄した人には味わえない生涯の有意義さだろう。
知り合いから聞いた本でも、好きなテレビ番組の原作でもいいので、何か一冊手に取っては如何だろうか。難解そうで尻込みしているのなら、心配は要らない、彼らを受け入れるのは常に我々側である。(注2)
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ところで、文学の面白さを知ったメダオ氏から最近こんなLINEが届いた。
『○○(彼の出身地)のメダオは浅学非才、令和三年、若くして堕落を重ね、ついで新しいゲームを買ったが、性狷介、自ら恃む所頗る厚く、学校をサボることは潔しとしなかった。しかしコロナワクチンには抗えず、37.8の熱を出してしまった』(注3)
ううむ……浸かりすぎるのも考えものではあるな。
(注1)実際に、彼は今東京に居ます。
(注2)改めて見返すと、何か実力考査の読解問題みたいな文章ですな。まだエッセイを書き慣れていない頃だったので、やや気負いと様子見があったのかもしれません。
(注3)嘘みたいな話ですが、実際に届きました。私に言わせて貰いますと、まだややぎこちなさが抜けないオマージュです。