『りてらちゅあっ!』⑪ 心を掴む表現方法
(初出 note、2023年3月3日)
前回のエッセイで私が述べた事は、「語彙力や表現力を養う方法について」という内容だった。その中で「考えながら言葉を使う事」「自分が考えながら生きているかを考える事」を挙げたが、今回はこれらについて、より具体的に掘り下げてみようと思う。
早速本題からは些か逸脱するような事を述べるが、最初に「純文学」という言葉を頭に思い浮かべてみて欲しい。ここで「うわっ」と思われた方に、このエッセイの先を読む事はお勧めしないのであらかじめ断っておく。
辞書により言葉の違いはあるが、「純文学」は一般的に「純粋に芸術的な目的を追求した文学」とされる。自分でも何を以てそう言えるのかは分からないが、一般的に純文学と言われる作品、例えば三島由紀夫や太宰治、大江健三郎などを読むと確かに「何かが違う」という感覚があるのだ。
これは友人メダオ氏の話だが、彼は私が先人の純文学と呼ばれる作品を勧めた時、読了後に次のような事を言った。
「物語としては特にどうという事はなかったけれど、何か心に残るものがあった。今まで読んできたエンターテインメントは確かに面白かったけど、何を訴えかけられたのかと聞かれると確かに返答に困る」
芥川龍之介の晩年、彼と谷崎潤一郎が当時の文壇で展開した「筋のある小説、ない小説」論争や、平野謙による問題提起から始まった昭和中期の論争も興味深いが、私は何となくメダオ氏のこの言葉に、純文学の本質があるような気がするのだ。
それは「琴線を奏でる」という事に集約されるのではないか、と私は思う。
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話を戻すが、「心に訴えてくるものがある」というのは「共感を誘う」という事である。平たく言えば、「分かる」と思わず肯いてしまう事とも言い換えられる。
理解出来るという事は、あらかじめ自分の内側にあるもので処理出来る、という事だと私は思っている。それが何故「気付き」になり得るのかと言えば、自分の中に眠っていたものが発掘されるからだ。閉じていた目が開かれる、天窓が開放される、と言ってもいい。
閉じられた人々の目を覚ますのが文学者、引いては芸術家と呼ばれる表現者の存在意義なのだとしたら、これ程分かりやすい説明はない。だが、誰の中にでもある普遍的な事柄を「共感」という言葉で一括りにし、「琴線」と等号で結ぶのは危うい考え方かもしれない。それでは凡庸と紙一重である。
私の偏見では、表現方法として誰もが最も使用する例は「比喩」だ(注1)。「○○を××と喩える」は、往々にして「○○を××と表現する」と言い換えて使用される。比喩表現を面白いと感じる瞬間は、俗に言う「その発想はなかった」というものに出会った時ではないだろうか。これは私が先程まで述べてきた「自分の中に眠っていたものが発掘される」という事を顕著に表している。
言われてみればそうだな、想像出来るな、と思う比喩は上手い。例えば「目を閉じる事」を「瞼の裏側を見る」と表現したりなど。私が好んで聴く音楽にヨルシカがあるが、作詞作曲を行っているn-bunaさんの比喩には度々感心させられて、『だから僕は音楽を辞めた』にある「心の中に一つ線を引いても」など本当に秀逸だと思う(心「heart」の中にスラッシュを入れると「he/art」となり、彼と芸術=音楽の乖離を示す表現になっている)。
また知念実希人さんの小説に度々登場する「全身の血液が水銀に置き換わってしまったかのように体が重い」という比喩も分かりやすい。分かりやすいのに、「その発想はなかった」と思える。
これこそが、私の思う「心を掴む表現方法」だ。受け手の盲点を突き、自然に納得させてしまう事、これである。これは単に知識があればいいというものではない。博識を表す表現として「ミーミルの泉の水を飲んだ最高神オーディンのような」(北欧神話より)などと比喩を使っても、殆どの人は理解しないだろう。それどころか、下手をすれば衒学趣味とすら捉えられかねない。
では、受け手に分かりやすく、それでいて多くの人が今まで使ってこなかったような表現力を養う為には、どうすればいいのか。
私は、これにはもう「身の周りの事象を表面的な現象としてではなく深め、追究する」という事以外にないのではないか、と思う。以前のエッセイにも書いた事だが、形而下にあるものだけを捉えるのではなく、そこから連想し得るもの、そこに至るまでに関連するもの、それらに思考を巡らすのだ。
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桜の花を想像して頂きたい。四月、私のように進学する人も、引っ越した先の街で新生活が始まる人も、新しい職場に挨拶に向かう人も居るだろう。舗道を歩き、並木道に差し掛かる。見上げると、頭上を満開の桜が埋め尽くしている。風が吹く度に花吹雪が自分の周りを舞い散る。
この時、読者諸賢はどう思うだろうか。「咲いている」だろうか、もしくは「散っている」か。「美しい」とも「儚い」とも思えるだろう。儚さを美しく思う人も居ると思うのであまり良い表現ではなかったかもしれないが、その場合は代わりに薔薇の花でもいい。気品があってお淑やかだ、と思うだろうか。もしくは、刺々しく攻撃的だ、と思う方も居るだろう。
何を言いたいのかといえば、角度を変えれば一つの物事でも様々に映る、という事だ。表現者、受け手、そもそも芸術を嗜まない人、客観的に見れば、知覚されている外界という客体は同じだ。となると、世界の深さは主観として「どれだけの見方が出来るか」によって定められる。
「目が開いている事」は「見ている事」と同義ではない。「知覚する事」は「考える事」ではない。感覚器官に飛び込んでくるものを待つのではなく、能動的にそれらを摂取しようとする姿勢こそが、表現力を養う為に必要な事なのだ。小説を読んだだけの人が、小説を読んで内容や表現方法について考えた人に比べ、自分でも文章を書く事が出来るだろうか?
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最初に「琴線を奏でる事」について述べる為に、私は純文学という例を引き合いに出した。そこで「ここで『うわっ』と思われた方に、このエッセイの先を読む事はお勧めしないのであらかじめ断っておく」と、啓発目的のあるエッセイの書き手としてはタブーと思われる事を敢えて言ったのは、一種のテストである。普段から思考放棄をしがちな人であれば、琴線を奏でる表現を追求した純文学は敬遠するだろう、つまり私が今回語るような内容の実践にはそもそも向かない人だろう、という。
私は前々から言っているように物書きの端くれに過ぎないので、このように表現者の方々に説教じみた事を言うのはおこがましい事かもしれない。だが、私という一個人が創作を行う上でどのような事を考えているのか、何に気を付けているのかについては、きっと誰にでも通じる事だろうとは思っている。
そう考えると、表現者たちの見えている世界、主観によって作られる客観、人生の集大成そのものと言える創作物の数々を蔑ろにするようなファストの横行は、やはり憤慨すべき事態だろう。だが真の創作者ならば、長い時間を掛けて養ってきた作り手の苦労を水泡に帰しめてしまうこれらが、誰かの琴線を奏でる事はないと断言する事が出来る。
ファストが奏でるのは琴線ではない。
あぶく銭同然な「金銭」の、チャリーンという音である。
(注1)私の使う比喩は、詩と小説でニュアンスが異なるようです。前者の場合はここで述べているような詩的な表現技法の一環として使いますが、後者は専門的な説明を分かりやすいものの喩えに置き換えるべく使うのだとか。なるほど、言われてみればそうかもしれません。