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第8話 痛哭

 ここしばらくは執務室に引き籠りがちだったので、銀漢宮から出ること自体が久しぶりだった。白璙の葬儀以来だと白琳はしみじみ思う。


 銀苑にある東屋あずまやへ辿り着くと、銀木犀の微かな芳香を乗せた秋風が頬を撫でた。

 さわさわと鳴く葉擦れの音や鯉が睡蓮と戯れている水音など、耳心地の良い天籟てんらいも白琳の心身を落ち着かせてくれる。


 白琳はとうに腰掛けてほうと息をつき、雲一つない蒼穹そうきゅうを仰いだ。翡翠も傍に佇んで主と同じ方角を眺める。


「今日は本当にいい天気ね」

「はい。いい休息日和です」

「ふふ。園遊会日和なら分かるけど、休息日和は初めて聞いたわ」


 白琳はおかしそうに笑って言う。


 ――やっと、笑ってくれた……。


 ここ最近、白琳の笑顔を目にすることは無かった。

 即位、それから兄の葬送を経て、彼女はいつも張り詰めた面持ちで公務に勤しんでいたから。だが、ようやく以前のような花笑みが見られたことに翡翠は破顔する。


「翡翠」


 そこで、白琳が隣の榻を叩いて座るよう指示した。しかし、翡翠はかぶりを振る。


「一護衛兵に過ぎない私が陛下のお隣に座すわけには参りません」


 丁重に断られてしまい、白琳は思わずむすっとした顔つきになる。


 ――また、陛下って言った……。


 公的な関係が優先されるとはいえ、幼馴染でもある彼から敬称を用いられるのは落ち着かない。何より距離を感じてしまうのだ。


「……白琳って呼んでくれるのは、もうあなたしかいないの」


 悲哀を帯びた呟きに、翡翠は微かに目を見開く。


「翡翠にまで陛下って呼ばれてしまったら、わたしはもう『白琳』じゃなくなる。桂白琳という一人の女性は失われ、残るのは女王の肩書しか持たない空虚な人形だけ」


 だから、翡翠。


 白琳はすがるような眼差しで切に願った。


「あなただけは、わたしの名を呼び続けて欲しい」


 母が与えてくれた大切な贈り物を。

 兄がその名を呼ぶことで与えてくれた親愛を。

 どうか、忘れないで欲しい。


「『白琳』の名をもって愛と安らぎを与えてくれる人は、もうあなたしかいないのだから」


 少女の願いは、しかと青年の胸に刻まれた。

 両の拳を強く握りしめ、翡翠は首肯する。


「承知しました。白琳様」


 満足そうに頷いた白琳は、その後苦笑しながら言う。


「それに、今はわたしとあなたの二人しかいないのだから、堅苦しい関係は気にしなくていいわ」


 だから座って。


 再度榻を指し示す白琳だが、それでもなお生真面目で立場をわきまえている幼馴染は渋っている様子だ。


「座って」

「……はい」


 半ば命令に従うような形で恐る恐る腰を下ろす翡翠に、白琳は再度口元を綻ばせた。


「翡翠。ありがとう」

「えっ……?」


 身に覚えのない謝意に翡翠は小首を傾げた。


「こうしてわたしのわがままを聞いてくれたこともそうだけど、あなたがさっき強く諫言かんげんしてくれたことがわたしにとって何よりの救いだったから」


 白琳は咲き乱れる銀花に目を向けた。

 儚ささえ感じさせる清麗な横顔、そよ風に揺れる白絹の髪――。仙郷の如き幻想的な美しさを放つ銀苑を背景に、その美貌は更に輝いていた。

 哀愁漂う瑠璃の眼差しに翡翠が惹きつけられるなか、白琳は続ける。


「新王――それも国事とは何かを全く知らないわたしに感傷に耽っている暇なんか無い。民の信用を得るためにも、身を粉にして公務に励まなければならない。勿論それも一つの理由だったけれど、あくまでわたし自身の力不足ゆえの公務邁進は建前に過ぎなかった」

「白琳様……」


 眼前の主はゆっくりとこちらに視線を向けた。その刹那、翡翠は愕然がくぜんとする。

 白琳の両の目から透明なものが今にも溢れそうになっていた。


「本当は……お兄様がいなくなったことへの悲しみを紛らわせるためだったの」


 ようやく本心を吐露したことで、これまでずっと抑え込んできた悲嘆と絶望が雫となって頬を伝う。


「でも、もう限界だわ」


 ――翡翠、ごめんなさい。


 これからあなたには見苦しい姿を晒してしまう。


 止めどなく流れ続ける悲涙に構わず、せきを切ったように白琳は哭泣こっきゅうした。


「もうお兄様はここにいない……!」





 もう二度と……お兄様には会えないっ‼






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