第7話 対峙
「何かしら」
「なぜ、陛下は御自ら学ぼうとされるのです? 学を修めずとも、政は我々官吏が滞りなく行いますゆえ、心配には及びませぬ。その御年で国を背負おうとする覚悟は立派でございますが、些か兄君のご意志やご期待に縛られ過ぎてはいまいかと」
表面上は白琳を案じている口振りだったが、隠そうともしない梟俊の威迫が牽制という真意を物語っていた。
本来なら、今頃彼が仕えているのは白璙だったはずだ。
梟俊だけでなく、官吏たちのほとんどが聡明で人徳ある彼が王であればと望んでいたことだろう。
無学で母親譲りの美貌だけが取り柄の女王など、彼らにとっては目の上のたんこぶでしかない。
特に先王の代から丞相を務め、かつ政を放任していた銀桀に代わって国を動かしてきた能吏の梟俊にとっては、尚更白琳をすぐには信頼できないだろう。
それゆえに彼は自分が勝手な行動をしないよう、自身の管理下におくために目を光らせているのだと思う。
——でも、いつまでも侮られているようではいけない。
せめて、彼らがついていきたいと思ってくれる君主にならなければ。
老獪な丞相の鋭い眼光に対し、白琳は静かな――それでいて意志の強い眼差しをもって答える。
「確かに、わたしはお兄様の意志を受け継いで女王となりました。でも、その想いや期待はわたしを縛るものではありません」
むしろ、わたしが進むべき道を照らし出してくれる光そのもの。
「光……」
神妙に呟く梟俊に、白琳は「ええ」と首肯する。
「何も今回だけじゃない。お兄様はいつもわたしに手を差し伸べ、生きる道筋を示してくれました。だから、今度はわたしが民にとっての〈光〉でありたい。それに――」
自国のことを知ろうともせず、ただ玉座に座って官吏たちが必死に働く姿を傍観するだけの王に、何の意味があるというのでしょうか。
梟俊は僅かに目を瞠った。だが、すぐに険ある面持ちに戻って傾聴に徹する。
「国の長となった以上、全てをあなたたち官吏にお任せするつもりはありません。かといって、独裁したいわけでもない。わたしはただ、梟俊たち官吏全員と力を合わせてこの国を平和へと導いていきたいだけです」
「そのために勤勉なさっていると?」
「ええ。恥ずかしながら、今のわたしにはあなたたちと対等に議論し合える知識を持ち合わせていないから……」
知識が無ければ、当然国と民を守っていくことなど出来やしないでしょう。
まだ稚い女王の揺るぎない意志に、梟俊は「左様ですか」とそっと目を伏せて部屋を退出した。
室内が静寂に満ちる。と同時に張りつめていた緊張の糸が解け、白琳はふうと息をついた。
「陛下」
「大丈夫」
美曜が気遣うように声をかけると、白琳は問題ないと小さくかぶりを振った。
「そろそろ昼餉の時間です。一旦休憩にしましょう」
「ええ。でも、もう少し待ってくれるかしら。先に地方から送られてきた公書に目を通しておきたいの」
白琳が再び椅子に腰掛けようとした途端、一瞬視界が眩んだ。そのまま体がぐらりと傾いて、遂には床に両手をついて倒れこんでしまう。
『陛下!』「白琳様!」
美曜と掩玉が揃って小さく叫び、翡翠もすぐさま白琳の元に駆け寄る。
「大丈夫よ。ちょっとよろけてしまっただけだから……」
心配をかけまいと笑みを浮かべ、気丈に振る舞う白琳。だが、その顔からは明らかに疲労の色が滲み出ていた。血色もあまり良くない。
翡翠は立ち上がろうとした白琳の手を掴む。
絶対に離さないとでもいうかのような強い力に、白琳は困惑の眼差しを臣下に向ける。
「翡翠……?」
「……恐れながら《《陛下》》」
突然敬称で呼ばれ、白琳はわずかに目を見開いた。
「今の貴女様では万全な調子で公務に邁進されることが出来ません。すぐに玉体をお休めになるのが賢明かと」
有無を言わさぬ強い口調と冷静な翠緑の瞳。今まで見たことの無いような気迫に、白琳は思わずたじろぐ。
「で、でも……今のわたしに休んでいる暇は――」
「根を詰め過ぎてお倒れになってしまったら、それこそ元も子もないでしょう。貴女様が為すべきとおっしゃった『君主としての務め』が出来なくなります。それでもよろしいのですか?」
言い返す余地も無い正論に、白琳は面伏せて悔しそうに唇を引き結んだ。
翡翠は白皙の繊手を優しく包み込み、柔和な笑みを浮かべる。
かつて彼女の兄がそうしていたように。至極優しい声音で言い諭す。
「それに、即位式が始まる前に白璙様もおっしゃっていたではありませんか。無理は禁物だと」
「……ええ」
「白璙様も、大事な妹君が苦しんでいる姿をご覧になりたくないはずです」
「っ……」
兄の言葉を引き合いに出されてしまったら、もう根負けするしかない。仮にいくら自分が頑として譲らなかったとしても、その分翡翠は食い下がろうとするだろう。
白琳は諦念を抱くとともに瞑目した。
「分かったわ……。あなたの言う通り、ちゃんと休むことにする」
「ありがとうございます」
翡翠は安堵の息をついた後、白琳の手をしっかりと握って立ち上がらせる。白琳は銀苑が眺望できる室内窓を一瞥した後、美曜と掩玉に向き直った。
「美曜、掩玉。少し、外の空気を吸ってきてもいいかしら」
「承知致しました」
「こちらのことはお気になさらず、ゆっくりしてきてください!」
快く送り出してくれる侍女たちに感謝しつつ、白琳は翡翠を伴って執務室を後にした。