第55話 異変
帰国から五日後。
白琳はいつも通り梟俊から講義を受けた後、掩玉が休息茶を用意している間に執務室で書簡を認めていた。宛先は勿論、金桂君だ。
本当は帰国後すぐに書簡を用意したかったのだが、和平に異を唱えている太守からの書簡に対する返書が優先された。あとは留守の間に溜まっていた公書への玉璽捺印でここ数日は多忙を極めていた。
ようやく理玄への書簡作成に取りかかることができる。自然と頬が緩み、白琳は美曜と翡翠の代理である年若い護衛兵に見守られながら筆を滑らせた。翡翠は先ほど部下の者に呼び出され、一時的に白琳の元を離れている。
無事国に帰還できたという報告。そして、二国会談への礼文。
「あとは……」
東屋でじっくり話せたこと。互いの気持ちを共有できたこと。
当時の出来事を回顧するたびに、理玄の優しい表情一つ一つが鮮明に浮かび上がってきて、薄っすらと頬が朱に染まると同時に段々と筆を動かす手も早くなる。
丁度書き終えたところで、扉が叩かれる音がした。入室許可を出すと、掩玉が湯呑を乗せた盆を持って部屋に入った。
「お待たせしました陛下。どうぞ」
「ありがとう。あら?」
受け取った湯呑はいつもの花柄のものでは無かった。鳥が花を咥えて羽ばたいている絵柄で、これも精緻で美しい意匠の代物だった。
「湯呑を変えたの?」
「実は、以前使っていた湯呑を落として割ってしまいまして……。これはその代替品なのです。本当に申し訳ございません!」
盆を机に置いて、すぐさま叩頭の姿勢をとる掩玉にぎょっとするも、白琳は「顔を上げて。掩玉」と榻から腰をあげて膝を折った。
「謝らなくても大丈夫よ。この湯呑もとても素敵だし、凄く気に入ったわ。それより、怪我はしてない?」
「はい……」
「なら良かった」
白琳は掩玉を立ち上がらせてから、再度榻に座って湯呑を手に取る。
「お茶、いただくわね」
ほんのり湯気が立つ湯呑を口に近づけ、一口啜る。
「うん。美味しい」
白琳が顔を綻ばせ、掩玉はほっと胸を撫で下ろして口角をあげた。
「せっかくですし、美曜さんと護衛兵の方も如何ですか?」
「ありがとう。でも、私は遠慮しておくわ。陛下がお休みになっている前で優雅にお茶を飲むわけにもいかないし」
「お、同じく」
固辞する二人に、白琳は苦笑しながら言う。
「わたしは気にしないから、皆で一緒にお茶を楽しみましょう」
「陛下がお気になさらずとも、私どもが気にするんです」
美曜がそう言って肩を竦めた瞬間――
「陛下!」
突如、切羽詰まったような声が扉を打った。一瞬にして室内の空気に緊張が走り、皆が一様に息を呑む。
「梟俊……⁉ どうしたの」
「失礼致します!」
普段は冷静沈着な梟俊が焦燥を露にしながら、執務室に駆けこんできた。
見たことも無い切迫した面持ちに、白琳の鼓動も警鐘の如く速まる。
「王都の民が金桂との国交や桂華国再興を聞き付け、禁門前で数多の批難と抗議の声をあげております!」
「えっ⁉」
「更には暴徒化した民がこちらに押し寄せ、現在警備兵や六軍兵が抗戦しております。また、各地の郡官庁でも同様の襲撃が勃発しているとのことです!」
「そんなっ……」
何の前触れも無く起こった緊急事態に、白琳は動揺を隠せなかった。
そもそも、民や官吏たちに知らせていない国交や再興のことが、何故国中に知れ渡っているのか。このような混乱が起きてしまうと分かっていたから、あの時——会談の場にいた全員に箝口令が敷かれたというのに。
——もしかして、その箝口令を破って誰かが吹聴した……⁉
だが、会談の場にいたのは自分以外で翡翠と三公の四人だけ。
金桂の面々もいたが、わざわざ銀桂国にやってきて民に密告するような真似はしないだろう。何より篤実な彼らが、そんな奸計を企てることなどあるはずがないだろう。
——じゃあ、翡翠か三公の誰か……?
翡翠ではない。彼は以前自身の願いを受け入れ、賛同してくれた。そもそも、このような卑劣な考えを抱く人物などではない。
梟俊も人柄の観点から言えばそうだが、何より沈毅な彼がこの慌て様を見せているのだからその振る舞いが偽りだとは思えない。
——となると、あの二人のうちどちらかが今回の騒動を引き起こした首謀者……!
彼らは和平交渉の時からずっと異議を唱え、反発していた。
——あの二人以外考えられない!
「梟俊! すぐに二人をっ……」
そう叫んだ途端、突如視界が眩んだ。




