第42話 愛別離苦
脳裏に焼き付いて離れない、十五年前の己の心を蝕む記憶。
数カ月ぶりに母が戦場から帰還したかと思えば、彼女はあまりにも無惨な姿で息子である自分の前に姿を現わした。
『母上……?』
右腹部を刺されてしまったのか、凛乎の胴部を侵蝕するように大きな赤い染みができていた。口周りも血に塗れ、激しく吐血したことが窺える。
しかし、まだ幼子だった理玄にとって、突然突きつけられた最愛の母の死は易々と受け入れられるものでは無かった。
『は、母上……おれです。理玄です。起きてください』
体を揺すっても、母は一向に瞼を開けようとしない。
生気を完全に失った青白い顔が虚しく小刻みに揺れるだけだ。
『どうして目を開けてくれないのですか? やっと宮廷に帰ってこられたというのに。母上…………母上っ…………! ――――――っ母上‼』
どれだけ呼びかけても、どれだけ体を揺り動かしても、母は目覚めない。
『ははうえぇぇっ――――――‼』
身を裂くような痛烈な叫びが、廷内の一室を震わせた。
これ以上はもう見ていられないと、侍女の一人が泣きじゃくる理玄を凛乎の遺体から無理やり引き剥がした。と同時に、官吏たちも彼女の亡骸を理玄の目の届かないところまで運んでいく。
『まって! ははうえっっ‼』
侍女の腕から抜け出そうと必死にもがくが、彼女もまた彼を逃がすまいと涙を流しながら拘束する力を強めた。
その後、母の死の真相を聞かされ、理玄は絶望の淵に立たされると同時に身を焼くような憎悪と怒りに襲われた。そして、決意した。
もっと強くならなければ。悪辣な敵国にねじ伏せられることなど無いよう、己が心身を限界まで高めなければ。
母が守り、愛していたこの国を誰にも侵されることの無いように。
もう、誰も悲しませずにすむように――。
あまりに残酷で凄惨な経緯に、白琳の血の気は瞬く間に引いた。
「すまない。だから最初は話そうかどうか躊躇ったんだが」
動揺を隠せないながらも、白琳ははっきりとかぶりを振る。
「……いえ。理玄様は予め、酷なお話だと忠告してくださいました。それでもわたしは聞きたいと思ったんです。だから、謝らないでください」
白琳は大きく深呼吸し、気持ちを落ち着かせる。
平心になったところで、先ほどの六将軍の寝返りについて尋ねた。
「でも、なぜ六将軍の方が寝返ってしまったのですか?」
「太尉は六将軍の中から選出され、王が最も相応しいと思った人物をその地位に据える。寝返った当時の左軍将軍は誰よりも太尉に固執していて、己が母に選ばれることだけを考えて鍛錬を積んでいた。恐らく奴は、一番強い者が太尉となれる。そう考えていたんだろうな。だが――」
理玄は一呼吸置いて続ける。
「いくら武勇に秀でていても、我欲ばかり強い者は太尉として相応しくない。身体的な強さだけが太尉たり得る資質ではない。母はそう考えていた。だからその男が太尉に選ばれることは無く、そのため母は奴に一生恨まれることになった」
「そんな……。では、その方の逆恨みによって御母上は殺されたというのですか。父も、その怨恨を利用して……」
「そういうことになる。将軍と女王の確執を銀桀がどこで知ったのかは分からないが、彼は部下に将軍と接触するよう命を下したはずだ。そして、金品を餌にでもしたんだろう。上手いこと言って将軍を懐柔し、母を殺すよう仕向けた」
言葉が出てこなかった。
まさか、実の父親が隣にいる青年の母親の殺害に加担していたなんて。
直接手を下したわけではなくとも、人の心を弄び、巧みに洗脳して間接的に殺したのも同義。
残虐非道な行いをした者の娘であることに羞恥を覚え、同時にどうしようもなく怒りに震えた。
「だから俺は、最初書簡を読んだ時に君の善性を信じることが出来なかった。母を間接的に殺した王の娘の言うことなど、どうせ欺瞞に決まっていると。それに、国交や桂華国再興に対しても、母の暗殺に片棒を担いだ銀桂と手を取り合わなければならないと思うと、やはり承諾しかねた」
——反対する理由には十分過ぎる。
当然だ、と白琳は思った。
自分が理玄の立場であれば同じ気持ちを抱く。
「……会談の際、わたしは両国の絆を繋ぐことを主張するばかりで、理玄様や民のお気持ちを全く考えられていませんでした。無神経にもほどがあります」
悔恨の情が押し寄せ、白琳の視線は自然と膝元に落とされた。
「本当に申し訳ありません……!」
込み上げてきたものが両の眼から溢れ、一滴、また一滴と手の甲に着地する。
涙声で謝罪する少女に、青年は咄嗟に腰をあげて彼女の正面で片膝をついた。
そのまま透き通るように白く華奢な両手を包み込み、
「顔をあげてくれ」
切に請うた。
小さな頭がゆっくりと上げられる。
「それと、どうか泣かないで欲しい」
止めどなく両頬を伝う雫をそっと拭う。
「君は無神経なんかじゃない」
強く断言され、白琳は明眸を見開く。
だが、一度は止まった涙が再度目元に浮かび、白琳の表情も苦悶に満ちた。
「でも……わたしの言葉が理玄様を苦しめてしまったことに変わりはありません」
「君はただ自分の意志を貫き、兄上の願いを叶えようとしただけだろう。それに、君は俺の過去を知らなかったんだから謝る必要は無いんだ」
「理玄様……」
涙に濡れた瑠璃色の宝玉が更なる輝きを放っている。
白琳には不本意だと思われるかもしれないが、それでも理玄はその宝玉が放つ真っ直ぐな美しさに見惚れざるを得なかった。
「君たちの願いは正直叶えられるかどうか分からない。少なくとも、今の状況では難しいだろう」
白琳は俯きかける。
だが、理玄の次なる言葉がそれを押し留めた。
「でも、叶えられるように努力する」
君の意志と願いが民意となるように。




