第37話 焦がれる
紅鶴が試合終了を告げると、理玄は木刀を降ろした。翡翠もどっと力が抜け、うっかり携えていた木刀を落としてしまった。
「良い試合だった」
そう言いながら理玄は翡翠の木刀を拾う。
「紅鶴以外の者にこれほど苦戦したのは初めてだ。流石は光禄勲、その剣技には目を瞠るものがある」
「……お世辞なら結構です。苦戦とは仰いますが、本当は楽勝だったとお思いになっているのでは?」
「会議の時に紅鶴が言っていただろう。私は嘘をつかない。嘘や騙し合いが一番嫌いな男だと。思ってもいないことをわざわざ口にするのは相手に対し礼儀を欠く」
それに、私自身のことは私よりも他者の方がよく分かっている。
理玄は金桂の三公たちに目を向ける。
その柔和な面様に、翡翠は秘かに頬を緩めた。
「……なるほど」
「二人とも、お疲れさん」
紅鶴が真っ先に労いの言葉をかけてくれ、両者の肩を軽く叩く。
「なかなか見応えのある試合で久しぶりに気分が高揚したよ。どうかな翡翠殿。うちの弟子に白琳ちゃんは預けられそうかい?」
「そうですね。敗北してしまった以上、私が何か言える立場ではありませんし」
白琳様のこと、よろしくお願いいたします。
首を垂れる翡翠に、「ああ」と理玄は首肯する。
「ただし、白琳様に万が一のことや何か手出しをされた場合はご覚悟を」
「肝に銘じておく」
眼光を鋭くさせる翡翠に理玄が苦笑したところで、白琳が彼らの元に歩み寄る。
「翡翠」
呼ばれて翡翠が振り向くと、純白の手巾が自身の額にあてがわれた。そのまま白琳はこめかみや頬周りの汗を丁寧に拭き取っていく。
「白琳様……!」
「すごい汗よ。もう、無茶だけはしないでって言ったのに……。体調は大丈夫?」
「大丈夫です。全く問題ありません。白琳様、それは自分でやりますので! ああ、いや……貴女様の私物をこれ以上汚すわけには」
「いいから」
有無を言わさず黙々と汗を拭い続ける白琳に、翡翠は「……はい」と素直に委ねた。
「申し訳ありません。白琳様」
「どうして翡翠が謝るの?」
「こちらから殿下の実力を測ろうとしたにもかかわらず、敗北を帰してしまい……。とんだ醜態をお見せしてしまいました」
私は護衛役失格です。
悔やんでも悔やみきれないと表情で語る翡翠に、白琳は微苦笑を浮かべた。
――あの時とは真逆ね。
東屋や先ほどの回廊での出来事を回想しながら、白琳はかぶりを振る。
「翡翠。護衛というのは、何も身体だけを守ることではないとわたしは思うの」
身だけでなく、心も守る。心身共に支えてくれる。
「それこそが真の護衛役と言えるんじゃないかしら」
「白琳様……」
手巾を降ろし、白琳は顔を綻ばせた。
「あなたはいつもわたしの心に寄り添ってくれる。東屋での時もそう。疲弊していたわたしの心を助けてくれたわ」
だから、失格だなんて思わないで。
その一言がどれほど嬉しかったか。また、救われたか。
思わず視界が揺らいでしまいそうになったのをぐっと堪え、翡翠は謝意を述べる。
「……はい。ありがとうございます」
白琳が満足そうに顔を縦に振ると、理玄が「そろそろよろしいか」と声をかけた。
「はい。お待たせしてしまい申し訳ございません。ですが、殿下も少し休息をとられた方が……」
「気遣いいただき感謝する。だが、大丈夫だ。試合一回で困憊するほど柔ではない」
――気障なことを。
顰めっ面になる翡翠の肩を、紅鶴は宥めるように再度叩いた。
「場所を移そうか」
理玄がそう切り出したので、白琳は頷く。
「あ、少しお待ちいただけますか」
「ああ」
白琳は翡翠の方を振り返った。
「翡翠。殿下たちがお越しになる直前に何か言いかけてなかったかしら?」
「え? ああ……」
『だから私は貴女様のご意志に従います。それに、私は――』
そう言えばあの時、まだ会話が途中だったなと翡翠は思い返す。
「あの時、何て言おうとしてくれたの?」
それは――と答えようとした時、この場に理玄や三公陣が居合わせていることに気づき、咄嗟に口を噤む。
「……何でもありません」
「え? でも」
「今この場で申し上げるには少々都合が悪いので……」
理玄たちを一瞥しながら言うと、白琳はすぐに察する。
「分かったわ。じゃあ、また後で教えてね」
「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「わたしがいない間、ちゃんとお部屋で休むのよ」
そう言いつけて理玄の後を追う白琳を笑顔で見送った後、翡翠は煩悶の顔色を浮かべる。
「では翡翠殿。中に戻りましょうか」
仁鵲は銀桂の三公たちを秋光殿に連れていくよう義隼に頼んだ後、翡翠に声を掛ける。だが、翡翠は聞こえていないのかずっと理玄と白琳を凝視していた。
「翡翠殿?」
依然として、翡翠は上の空だ。
白琳様。貴女は知らないでしょう。
私がどれほど貴女を慕い、想っているかを。
「白琳殿」と殿下が貴女の御名を口にしていることに、どれほどの妬心を抱いているのかを。
貴女の御名を呼べるのは私しかいないと、貴女自身が仰ったから。
だから私は、己が胸を強く締めつけるこの悋気を抑えることができない。
「おーい。聞こえてる?」
眼前で紅鶴が手を振ったので、ようやく翡翠は我に返る。
「すみません。少しぼうっとしていて」
「やっぱり、あの二人のこと気になる?」
紅鶴に問われ、翡翠は「…………いえ」と長い沈黙の後に否定した。
「図星だね」
「いえ、だからそういうわけでは……」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。さっき戦ってみて分かったでしょ」
あいつならちゃんと責任持って、翡翠殿の代役を務めあげるから。
「…………」
どうやら紅鶴は、翡翠が未だに理玄の護衛代行を案じていると勘違いしているようだ。
まさかここまで鈍感だとは思いもせず、翡翠は呆気にとられて言葉を失う。
――そうじゃないんだよ、紅鶴姉さん。
どうやら仁鵲は翡翠の心情を汲み取っていたようで、やれやれと肩を竦めた。
「ささ、お疲れでしょうからもう中に入りましょう」
誘導してくれる仁鵲と紅鶴の背を追いつつ、翡翠は決心した。
次に白琳と二人になった時、己の気持ちを打ち明けるのだ、と。




