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第18話 緊急事態

 時が経ち、太陽が中天に差し掛かったある日のこと。

 秋陽宮の回廊を駆ける若き丞相が主の執務室に着くや否や、入室許可を得ずにそのまま勢いよく扉を開けていた。


「おい、理玄! 大変だ!」

「せめて扉を叩くなり、名乗るなりしてから入れ。仁鵲」

「ああ、悪い……」


 机上の書類に視線を落としたまま理玄は仁鵲を諫める。

 親友とはいえ、彼もそれなりの節度を弁えている。無断で執務室に入ることなどこれまで一度も無かった。

 理玄は訝しみ、すぐに顔をあげて仁鵲に問いかける。


「どうした。そんなに血相を変えて」


 息を整えて仁鵲は理玄の元へと歩み寄ると、努めて平静な声で火急の用件を報告した。


「銀桂の女王からお前宛てに書簡が届いたんだ」

「何?」


 寝耳に水の出来事に、理玄は大きく目を見開いた。


「さっき銀桂からの使者が来て、これをお前に渡して欲しいって」


 仁鵲は懐から例の書簡を取り出し、手渡す。理玄はそれを受け取ると、すぐに書簡を広げて目を通した。


 滅多に感情を表に出さないあの冷静沈着な王が、時折息を呑んだり困惑の表情を浮かべたりしている。仁鵲はまだ書簡の内容を知らなかったので、一体どんなことが書かれているのかと気になって仕方が無かった。だが、今はただ固唾を呑んで彼が読み終えるのを待つしかない。


 ほどなくして、理玄は軽く嘆息し眉間に手を添えた。

 仁鵲は恐る恐る尋ねる。


「書簡には何て書いてあったんだ?」


 理玄は仁鵲を一瞥した後、顔をしかめて答えた。


「長きにわたる戦を終結させ、金桂こちらと和平条約を結びたい、と」

「…………はぁ⁉」


 すぐに意味を理解することができず、仁鵲は一瞬黙した後盛大に間抜けた声をあげた。


「ちょ、ちょっと俺にも読ませてくれ!」


 半ば強引に受け取った書簡を見ると、流麗な筆致と女王の玉璽が最初に目を引いた。


 ——もしかしてこれ、女王の直書じきしょか?


 女王の自筆書簡に驚きながらも、仁鵲は一言一句正確に美麗な文字の連なりを目でなぞる。

 そこには確かに、終戦と和平交渉の主旨が書かれていた。また可能であれば、近いうちに会談を開き、二国間のこれからについてじっくり話し合いたいとも明記されている。


 仁鵲は「おいおい、急展開過ぎるだろ」と目端を下げて頭を掻いた。


「どうすんだよ、理玄」

「どうすると言われてもな……」

「こればっかりは、流石の金桂君でも不意打ちをくらったか?」


 図星を指され、苦虫を噛み潰したような面持ちになる理玄に「まあ、そうだよな」と仁鵲は苦笑する。


「使者が来た時点で只事ではないと思ってはいたけど、まさかあの銀桂が和平を申し出てくるなんてな。そんなの誰が想像できるんだって話だ。それに、書簡を読む限り、本当にあの暴君の娘かって疑心暗鬼になるくらい純真無垢で平和主義な女王様みたいだし?」


 理玄——金桂君に対する慇懃かつ謙虚な言葉遣い。そして、丹念に綴られた言葉に内在する強い意志と切なる願い。

 仁鵲の脳内で描かれた銀桂女君は、まさに清廉潔白で芯のある優美な女性だった。


「だが、書面ならいくらでも人格を偽れる」


 理玄は冷徹にそう吐き捨てて、執務椅子から腰をあげた。

 そのまま背後にある窓から遥か彼方にある敵対国を臨み、眉根を寄せる。


「所詮は鳧徯ふけいの一族に過ぎない。無抵抗を主張し、和平を持ちかけることで俺たちを油断させ、良からぬ奸計で金桂を転覆させる。大方そんなところだろう」

「じゃあ、会談の申し出も突っぱねるのか?」

丞相おまえはどうすれば良いと思う?」

「質問を質問で返すなよ……。しかも、よりによって会談の可否を俺に聞くって」

「王の独断と采配によって政治が成り立つのなら三公なぞ要らない」


 ――全く、こいつは……。


 振り返って口の端を吊り上げる親友に、やれやれと小さく溜息を吐いて笑みを浮かべ、仁鵲は自身の見解を進言する。


「俺は会談の申し入れを受けても良いと思う。それで相手の人格や企みも大方把握出来るだろうし、ある程度向こうの情勢も分かるはずだからな。慧眼けいがん持ちのお前なら、女王の素性を暴くことくらい造作もないだろ?」


 ふむ、と神妙な面差しになって理玄は顎に手を添える。


「確かに、お前の言うことも一理ある。書簡を届けに来た銀桂の使者は?」

「一応、客室で待たせてある。今義隼(ぎしゅん)さんと典各てんかく殿が相手をしているはずだ」

「そうか」


 義隼は御史大夫を務めている男性だ。普段は官吏たちの監察や法の執行を主な職務としているが、銀桂の内情にまつわる調査も兼ねている。

 典各は九卿の役職名で、外交を司る。ロサ国などの外国使節の接待や、以前理玄が思案していたような交易関連の事柄を担っていた。


 もっとも、銀桂からの使者という異例の来客には流石の彼らも困惑を隠せていないだろう。


 ——下手に相手を刺激していないといいが……。


 問題なのは、義隼がとりわけ銀桂に対する偏見や差別意識が強いことだ。接待している今も尚、一触即発の空気感を漂わせて典各をあたふたさせているかもしれない。


 事が起こる前に対処しなければ、と理玄は椅子に座り直し、机の引き出しから紙を数枚取り出す。


「義隼に伝えてくれ。俺が返書を認めて使者にそれを渡しに行くまでは絶対に面倒事は起こすなと」

「了解。そう言うと思ったよ」


 仁鵲は執務室を後にし、君命通り使者を待たせている客室の方へと向かった。

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