第9話 「三億円事件」と「三億円事件」 その2
「だって僕の知っている『三億円事件』は、未解決事件で結局犯人は捕まらなかったんですから。ここだけ違うなんておかしいでしょう?」
その滋彦の言葉を理解するのに少し時間を要した。
まず根本的に何が違うのかが解らず、犯人内田滋彦の口から出た『犯人が捕まらなかった』という言葉も理解できなかった。それだけ自分の脳にインプットされていた情報『三億円事件の犯人=内田滋彦』、という図式は強固なものだったのだ。
頭に手を当てて考えていると、ようやく彼の言っていることが理解できはじめた。つまり自分は犯人だけれど真犯人ではない、と言っていたことの意味がわかり始めたのだ。滋彦のいた世界では三億円事件の犯人は捕まっていない……、真犯人は別にいる……。その言葉の裏側を探っていた俺の頭に、あの時のビジョンが蘇る。
俺が府中刑務所の脇で意識を取り戻したとき……、そう、ニセの白バイ隊員が現金輸送車を強奪したときだ。あの人物の横顔といまの内田滋彦の横顔は似ているようで似ていない、その瞬間もそう思ったのだ、つまり、それは……。
「なあ滋彦くん。きみはこの時代で気がついたら現金輸送車の運転席にいた、たしかそう言ってたな。その前の記憶は何もないのか?」
滋彦は無言で首を振り、お手上げのポーズを示す。まったく何も覚えていないらしい。
「なるほど、どうやら俺は君がこの世界に来る数十秒前に来たらしくてな、現金輸送車を奪う瞬間のニセ警官を見ているんだ。そしてその男は……、どうも君に似ているけれど違ったような気がするんだな。もっと強い意志をもった、線の太い感じの……」
「その男ですよ! この事件を計画して実行したのは! 僕は犯人だけど真犯人じゃないんです」
我が意を得たりと滋彦は顔を輝かせていた。しかしそれにしても不可解な部分は残る、つまりその男が現金輸送車強奪後にどうなったか、ということだ。
俺は府中刑務所脇のあの場所で三億円事件の一部始終を見ていた。「ダイナマイトだ!」と叫んだニセ警官が現金輸送車を奪って去っていく現場を見ていた。そこにこの内田滋彦と入れ替わるようなタイミングや機会など無かったはず、これをどう説明するのか。
そのことを滋彦に問うと肩をすくめて「それは僕にはわかりません、ただ……」と言葉を続けた。
「ただ、僕の知っている『三億円事件』と菊沢さんの知っている『三億円事件』は途中からストーリーが違っている訳ですから、僕が犯人になっている『三億円事件』の顛末を最後まで話してくださいよ。僕が匿名の通報で捕まるところまでしか聞いてないんですからね。その後で僕の知っている『三億円事件』も包み隠さず話しますよ」
「そうだな、じゃあ俺の知っている一連の三億円事件について流れを説明しよう。ただお前さんにとっては受け入れがたい部分も出てくるけどな」
俺は三本目のハイライトに火を付け、こちらの三億円事件について知っている情報を教えた。
三億円強奪事件の半年ほど前からあった多摩農協脅迫事件、事件の4日前にあった日本信託銀行国分寺支店長宅爆破予告事件、その脅迫状の筆跡が一致したため三億円事件を含めた一連の事件は同一犯によるものと断定されたこと。
事件当日の犯人は警察の警戒網を突破して逃走し、事件後ひと月を経ても全く捜査が進まなかったこと。そして匿名のタレコミ電話での内田滋彦逮捕劇、さらに勾留中の黙秘と突然の病死。
最後に至っては結局現金三億円の在り処が判明しなかったということと、内田滋彦なる人物は日本のどこにも居た痕跡がなかったという謎。
そのすべてを俺は滋彦に言って聞かせた。さすがに逮捕勾留中に突然クモ膜下出血で自分が死んだ、と聞かされた時には嫌そうな表情を見せたが、先ほど小金井本町住宅で取り乱したように逃げようとはしなかった。
「――とまあ、こんなところだな。これが俺の世界での三億円事件の顛末さ」
吸い終わったハイライトを灰皿に放り込み、俺は深い溜め息をつく。
「なるほど……。自分が逮捕されてその後に病死すると聞かされて、さすがにいい気分じゃないですね。まあ今さらどうこう言ってもしょうがないですけど。ただ疑問点が幾つかあるんです、こっちの三億円事件との繋がりもあるんですが聞いてもいいですか? まず最初に僕が逮捕されたとき、なぜ僕が犯人だと断定されたんです? 証拠があったんですか?」
「五百円札だよ、五百円札」
「五百円札?」
滋彦は訝しげな顔をしたあと、あっ、と言って苦笑いを見せた。
「その時に僕が五百円札を持っていたんですか、強奪した現金のなかで銀行がナンバーを控えていた新札の五百円札ですね……。でもその五百円札は市場で流通して僕の手元に来た、という可能性もありますよね。そんなのでよく逮捕状が出ましたね」
「違うよ、その時の逮捕要件は公務執行妨害。部屋にあった五百円札を警察に突きつけられて逃げようとしたらしいな」
「部屋にあった? 五百円札が? そんなのおかしいですよね、僕だったら真っ先に五百円札は処分しますよ。ナンバー控えられてて危ないって知ってるんですから」
自分自身の不備についてどうも納得がいかない様子で、滋彦はブツブツと言いながら首を捻っている。
「次の疑問は匿名通報と黙秘ですよ。例えば僕が誰かにはめられたとした場合――部屋に何故か五百円札があった件も含めてですよ、黙秘なんかせずに怪しい人物をしゃべると思うんですよね。特にこんな風に菊沢さんにピストルで脅された、とかだったら……、あれ? ピストル……持ってない?」
「本当にお子ちゃまだなあ。あんな木の棒で騙されて、まだ信じてたのか? ピストルみたいな物騒なもんを持ってるわけねえだろ」
「ひっでえ人だ、信じられないなあ。まあとにかく匿名通報に対して黙秘した理由ですよね」
犯人の内田滋彦が黙秘した理由については当時からいろいろと噂が流れていた。なかでも有力だったのは三億円強奪とは言え刑法上の罰則は窃盗罪で長くても懲役10年、だから出所後に秘匿した現金を取り出して余生を暮らすために黙秘したというものだった。
だがここで本人を目の前にすると、どうもそんな面の皮が厚い人間には思えない。黙秘についても何か別の理由があったのだろうと思えてきた。
「最後に真犯人なんですけど……、菊沢さんの世界では事件の5日後に謎の自殺をした現役の白バイ隊員の息子っていなかったですか? 少年Sとか何とか言われていた立川グループの一員ですけど」
『立川グループ』――西東京の三多摩地区を中心にして車泥棒や窃盗、恐喝などを繰り返していた不良グループで、三億円事件に用意された逃走車両の窃盗手口が似通っていたことから捜査線上には浮かんでいた。しかし――
「立川グループの少年が謎の自殺したっていう話は聞かないなあ。ただ、こんな噂を聞いたことがある。現役警察官の不良息子が事件前に家出をして、結局そのまま蒸発したとかなんとか……。まあ鑑別所に入れられるような不良息子だったらしいから、失踪してそのスジの暴力団関係に入ったとしてもおかしくはないんだけどな」
「蒸発……、失踪ですか……」
滋彦は目を細めて霊園内に降り続く雨を見ながら、何かを考えているようだった。しばらくの沈黙が流れたあと、こちらを振り向いた滋彦が思わぬ言葉を発した。
「菊沢さん、菊沢さんはこの世界で僕の過去の履歴が無いって言ってましたよね。じゃあ今の状態だと菊沢さんにも無いってことですよね、たぶん」
「……そう、かも知れないな」
心のどこかに引っかかっていたことを滋彦に言われ、俺の心臓はドキリと脈を打つ。
「じゃあ、いったい僕たちの正体って……ナニモノなんでしょうね?」