第6話 小金井本町住宅 B1棟駐車場 午前9時50分頃
雨の中、小金井本町住宅へと向かうタクシー。初乗り100円という表示が隔世の感を抱かせる。
「おい頼むよ、急いでくれ。どのくらいで行けそうだ?」
「そうですねえ、混んでなければ10分ちょっとですかねえ。でも年末だしねえ、今日は雨だからねえ、どうかなあ……」
タクシーの運転手が呑気な声を出す。少々イライラしながら俺は時間を計算した。
あと10分少々ということは9時50分頃には小金井本町住宅へと着くはず。犯人が泥ハネをしたり親子連れとすれ違ったりしたという証言の時刻を考えると、何とか先回りに間に合いそうな時間。
武蔵国分寺跡から小金井本町住宅へと直行したかどうかは判らないが、奪った現金三億円を持ってウロウロと時間を潰してくるとは考えられない。間違いなく内田滋彦はこのまま直行したはずだ。
俺は時計を見ながら祈る思いで時間の経過を確認する。沈黙の車内でカチャッとメータの上がる音が響いた。110円、120円と上がっていくメータを見ながら、ふと思い立って上着のポケットをまさぐった。
――いつもの財布の手触りと違う……
そこで初めて自分の格好を見た。俺はこんなコートやスーツを持っていないし、大体スーツなんてほとんど着ることもない。
財布を取り出して広げてみる。知識では知っているものの使ったこともない聖徳太子の1万円札と伊藤博文の千円札が入っていた。
よく見ると財布の中には名刺が挟まっている。恐る恐る取り出してみるとその名刺には不動産屋と思しき会社名と名前が記してあった。
――福永……勝己? 誰だこれ?
いまここにいる自分が福永勝己という存在なのか、それとも俺が福永勝己という人物と出会って名刺を貰っていたのか? これだけでは何もわからない、その他には国鉄の定期券が入っていただけで身元を裏付けるものは何もなかった。
――俺の名前は菊沢典弘、これは間違いない。でもこの時代で俺は菊沢典弘なのか? それを証明するものはなにもない、このことについては後で考える必要があるな……
取り出した財布をポケットに戻し、俺は一度深いため息をつく。外の雨は降り続き、レトロに見える家並みと武蔵野の木々を濡らしていた。
◯ ◯ ◯
「お客さん、この辺りでいいかな?」
しばらく走ったタクシーは団地の入口付近で停まった。50年前の小金井本町住宅はまだ新興団地の雰囲気を醸し出していた。
「ありがとう。B1棟ってどこにあるか知ってるかい?」
「そこを入って右、駐車場の隣だよ」
運転手の指し示す方向には駐車場が見えた。まさしくあそこが今から内田滋彦がやって来ると予想される駐車場だった。伊藤博文の千円札を出してタクシー料金を精算し、車を降りる時にふと思いついて運転手に尋ねてみた。
「今って、昭和よんじゅう……、えっと43年で合ってるよね」
「ああ? ああそうだよ、もうすぐ昭和43年も終わりだね」
「ごめん、変なこと聞いたね」
運転手に礼を言ってタクシーを降り、俺はひとまず団地の軒の下で雨宿りをすることにした。
タクシーの運転手との話や財布に入っている紙幣を見ても、いま現在が昭和43年12月10日であることは間違いないと判断する。何と言ってもこの目で見た現金輸送車の強奪場面は「あの三億円事件」としか考えられない。もうすぐこの場所に現金三億円を持った内田滋彦がやって来る。
何も語らずにこの世を去り、世紀の大事件の犯人とされる内田滋彦。その本物と接触できるかと思うと冬なのに手のひらに汗が滲んだ。
タクシーを降りて数分が経った。まだこの場所に濃紺のカローラはやって来ない。さらに待つこと一分、二分……、その数分が数十分にも感じ、もしかしたら全て根拠のない自分の思い込みだったのでは無いかと思い始めた時だった。
団地の植木の向こうから1台の自動車がやって来るのが見えた。色は濃紺、車種は……ここからだと判別しにくいけれど4ドアのセダンタイプ。その車は目の前を横切りゆっくりと駐車場へと入っていく。――間違いない【多摩5 ろ 3519】のカローラだ!
濃紺のカローラは駐車場に入ったあと、辺りをうかがうようにしばらく動きを止めた。俺が物陰に身を隠しながら車の様子を探っているとようやく人が降りてきた。いよいよ現金の積替えだと察知する。
さてこれからどうやって接触するかを考えはじめた時、車を降りた男が妙な動きを開始した。雨の中、駐車場に停めてある自動車を一台また一台と確認しているようなのだ。
――妙なことをする……
その様子を見ていてもまさしく何かを探しているように見える。
――逃走用の車を探している? 今になってそんなことをするのか? 当然事前にそんなことは準備しているだろうに……
駐車場の半分の車を調べ終えた男が首を傾げながら次の車へと向かう。今度はこちらに背を向けて車のシートをめくろうとしていた。俺は落ちていた木切れを拾って男の死角から背後に静かに近づき、それを背中に突きつけた。
「動くなよ、三億円事件の犯人さん。背中に押し付けているのは拳銃だ、俺は人殺しはしたくない。そのまま動かずに俺の言うことを聞け、イエスなら首を縦に、ノーなら……死んでもらうしか無いな」
俺の言葉に男の動きがピタリと止まる。降り続く雨の駐車場、周りには俺達の他には誰もいない。
「さあイエスか? ノーか? どっちなんだ」
男は縦に首を振り、掠れたようなか細い声を発する。
「待ってくれ、言うことは聞く。アンタはいったい誰なんだ?」
俺はこの返答で確信した。この男は本当に三億円事件の犯人で「自称内田滋彦」その本人だと。
「フフッ……、キミが俺のことを知らないのは当然だな。だが俺はキミを知っている。なあ可笑しいだろう三億円事件の犯人、自称内田滋彦くん?」