第5話 再び府中刑務所前 午前9時30分頃
あの三億円事件発生から50年以上が過ぎた。それほど時間が過ぎ去ったのに、しがないフリーライターの俺のところにも三流雑誌社から事件の原稿依頼がきていた。どうして三億円事件というのはこんなにも人の興味を引き続けるのだろうか。
三流雑誌社とは言うものの継続して仕事をくれるこの会社は、俺のような底辺ライターにとっては有り難いお得意先だった。
「菊沢ちゃん、今度の三億円事件の企画原稿さあ、ありきたりのヤツじゃなくて突拍子もない話で書いて欲しいんだけどねえ」
いつもの通り俺のことを菊沢ちゃんと呼ぶのはいいが、この編集長の言い方はオカマっぽくて違う意味で緊張する。
「戸崎編集長、三億円事件でありきたりじゃない話ってもう出てこないでしょ? 容疑者の内田滋彦は逮捕勾留中に急死、三億円の在り処は不明、バックに何か組織があるのかどうかも不明。公安警察陰謀説から米軍関与説、それから旧ソ連のスパイ説まで、ズラッと並んだトンデモ説は出尽くしてると思いますけどねえ……」
1968年の12月10日、府中刑務所前で現金3億円が強奪された「いわゆる三億円事件」は、世間を揺るがす大事件となった。現場に残された豊富な証拠品や、銀行員が犯人を見ていることなどから、警視庁内部には年内にも事件解決という楽観論さえあった。しかし案に反して犯人に関する膨大な情報に振り回され、事件は越年し一ヶ月が経っても容疑者の糸口さえつかめない様相を呈してきた。
状況が一変したのは一ヶ月が過ぎて少し経った頃だった。犯人に関する匿名のタレコミが警察にあり、半信半疑ながらアジトと言われた場所に踏み込むと、後に容疑者として逮捕される内田滋彦がいた、というものだった。
「それでもねえ菊沢ちゃん。結局その死んだ内田滋彦ってどこの誰だか、そもそも日本人だかどうだかも判らなかったでしょう? 内田滋彦っていう名前も本人が自称しただけで、該当する人物は日本国中探してもいなかった。彼って本当に犯人だったのかしらねえ」
「そうですねえ……。アジト周辺でも奪った現金は発見されず、取り調べ二日目の夜に内田滋彦が謎の急死。単独犯だったのかどうかも謎、ウワサされていた立川の不良グループにも入っていない、現金はどこへ消えたのか、ホントに全部が全部謎の事件ですからね」
本当に内田滋彦は三億円事件の犯人だったのか? 50年経った今でもその謎は解けていない。
警察による取り調べの一日目は完全黙秘、二日目にようやく自分の名前を内田滋彦と名乗ったものの、翌日の取り調べの前に急死。死因はクモ膜下出血とされているが、それさえ疑わしく感じられる。
警察はその後、本人が口にした「内田滋彦」なる人物を調査したが日本には該当する人物がいないと結論付けられた。まさに誰も知らない謎の人物「内田滋彦」だったのだ。
「菊沢ちゃん、例えばさあ……」
戸崎編集長がオカマっぽい流し目で僕に問いかける。
「例えばさあ、内田滋彦なる人物の謎をオカルトっぽく書いてみたらどうかしら? ほら、違う世界から転移してきたから戸籍とか生きてきた痕跡が無いとか、死んだことにされてるけど本当は元の世界に戻ったとか。ねえ菊沢ちゃん、異世界ブームに乗っかってチャチャッとでっち上げの原稿書いちゃってよ! 得意でしょそういうの!」
「異世界ブームって、それラノベの世界でしょ。いくらなんでもソレとコレとは……」
「つべこべ言ってないで、そういう感じで不思議系の原稿書いてちょうだい! 落としたりしたらもう使わないからね!」
勝手に戸崎編集長に原稿の約束をかわされ、俺は編集部をあとにした。
原稿を落としたらもう使わない。フリーのライターにとってはこれほど恐ろしい言葉もない。
「編集長もでっち上げの原稿でいいと言っているし、適当に作るか……。まあ一応それでも現場取材だけはしておくかな」
小汚い出版社のビルを出た俺は、三億円事件の現場となった府中刑務所脇のあの有名な場所へと向かった。
△
今日の府中もあの日と同じように雨が降っている。
事件の発端となった日本信託銀行国分寺支店跡や、偽物の白バイを待機させていた場所を巡り、白バイ隊員に扮した内田滋彦が現金輸送車を停めたあの有名な事件現場へとたどり着く。50年前のあの日、ここで現金輸送車は奪われ三億円は闇に消えた。謎の犯人、内田滋彦を残して。
俺が事件現場の現在の写真を撮り終わり、府中刑務所の塀に沿って歩き始めた時だった。後ろの方から自動車がぶつかるような大きな衝撃音が伝わってきた。
何事? と振り返った俺の目に映ったのは、ガードレールを乗り越えて向かって来る一台のトラックだった。叫ぶ間もなくその車体は覆いかぶさってきて、そこで俺の意識は一旦途切れた。
△
次に気がついた時、俺は雨の中に立っていた。場所は同じ府中刑務所の脇、しかし何か感じが違う。煙る雨の中に見える景色は何かこうレトロな雰囲気。
俺の脇を一台の自動車が通り過ぎてゆく。黒塗りのセドリック、クラシックカーと言っていい古い年式だ。
その後から今度はセドリックを追いかけるように白バイが走って来た。よく見ると何か引きずりながら走っている。あれは……、オートバイ用のシートカバー?
俺の中で日常と非日常がせめぎ合いを始めていた。
――まさかあのセドリックは三億円事件の現金輸送車? シートカバーを引きずるあの白バイは犯人の偽装白バイ? ドラマか何かの撮影か? 何かのドッキリの仕掛けなのか?
白バイ隊員が手を上げてセドリックを止めた。少し距離が離れているが隊員の顔が見える。以前見た内田滋彦の顔写真に似ているような似ていないような気がする。銀行員が慌てて車内から出てきた直後、白バイ隊員が車体の下に潜り込んだ。俺の目前で行われていることすべてが三億円事件の再現フィルムだった。
「あったぞ! ダイナマイトだ!」
白バイ隊員の大きな声が聞こえたかと思うとセドリックの下から白煙があがり始めた。銀行員たちが飛び退いた瞬間、白バイ隊員はセドリックに乗り込み走り去って行った。あとに残ったのは燃え盛る発煙筒とシートカバーを引きずったままのバイク。どこからも「カット」の掛け声も、「お疲れ様でいた」の声もかからない、ただ雨の音だけが響いている。
――三億円事件だ!!
俺は十数秒考えたあと結論を出した。
――本当の三億円事件の現場に飛ばされてしまったんだ!
どうすればいいか? そんなことは決まっている。謎の犯人「内田滋彦」に接触するんだ!
府中街道まで走った俺は流しのタクシーを捕まえた。
「武蔵国分寺の跡……、いや違う! 学芸大近くの小金井本町住宅に行ってくれ! 早く!」