第38話 もういちど転生したら……
◇ ◇ ◇
府中署の薄暗い廊下を歩いていると後ろから藤岡に声を掛けられた。この男も昨日は徹夜だったのに俺と違って若いだけあって元気だ。
「ナベさん、お手柄だったっていうのに眠そうですね」
「当たり前だろ、眠いに決まってるじゃないか。40越えるとガタッとくるんだよ」
昨夜の大捕物に続き取り調べ、現場の調査、報告、さすがに今晩は仮眠をとりたいところだ。
「しかし、不思議な事件ですね、なにもかもが」
「ああ、そうだな……」
昨夜捕まえた男のスーツケースからは現金約二億八千万円が見つかった。これだけでは三億円事件の犯人とは決めつけられないが、その百万円の札束には一枚の五百円札が入っていたのだ、強奪された三億円の中に入っていた五百円札と同じ紙幣番号の五百円札が。
取調室でそれを突きつけた瞬間、それまで余裕ぶっていたあの男は激昂した。「あの野郎」とか「騙しやがって」と叫んで暴れたので取り調べは一時中止となった。彼の身元もまだ分からない、木幡警部補との関係も、あの横山との関係も、何もかもが分からないことだらけだ。
「結局、横山からの電話の情報は合っていたんですけど、この状況をナベさんは読んでいたんですか?」
「ハハ……、読めるわけないじゃないか。結果的には合っていただけで、そこまでの道筋が合っていたかどうかなんて解からんよ。確かなのは横山があの男をチクった、それだけだ。現金はほとんど残っていたんだし、横山の手元には渡らなかったのかもしれない。分け前が何も無かったのを恨んだのか……。とにかく取り調べを続けないと何も分からないな」
世間を騒がせた稀代の大事件は一応解決に向かいそうだ。ただこれから先が思いやられる。あの男の単独犯だったのか、共犯はいるのか。木幡警部補の謎の失踪をどう処理するのか。モンタージュ写真や目撃証言との整合性。そして謎の通報者横山はどうしているのか……。
「そうだナベさん、いま時間が空いてるんだったら飯食いに行きましょう! 腹減ったんですよ、肉とか食べたいですね」
「藤岡君……、今日は肉とか勘弁してくれよ」
◇ ◇ ◇
気がついた時、僕は右手にクリームパンを持ってコンクリートの生け垣に座っていた。隣を見ると菊沢さんも同じようにパンを持って呆然としている。ヨレヨレの薄汚れた作業服に色の禿げたズボン。二人とも浮浪者とはいかないまでも、仕事の終わった日雇い労働者といったところだ。
「菊沢さん……、僕たちトラックに跳ねられましたよね。これ、まさかまた……」
「ああ、ここって、どこだよ」
「たぶん、新宿……ですね。あれ、スタジオアルタ、ですよね」
僕の目の前には見知っている建物があった、新宿のスタジオアルタ。ただ建物自体は僕が知っているよりも随分と新しく、周囲の風景も全然違う。黄色い変わったスクーターが一台前を通り過ぎていく。紺色のスーツに赤いネクタイ、頭にはソフトハットでノーヘル、見るからに変わった人だ。いったい僕たちはいつの時代に来たんだろう。
「なあ滋彦、そこの看板、国鉄新宿駅って書いてあるな。ってことは現代じゃないってことか」
「そうですね、走ってる車もまだまだ昭和の車ですね」
キョロキョロと周りを見た感じでは、少なくとも昭和40年代ということは無い。そこからもう少し現代に近い時代だろうか。僕が手に持ったクリームパンをひとかじり食べた時、菊沢さんが大声を上げ始めた。
「おい! おいおいおい! ねえよねえよ! 滋彦! 俺の百万円どこにやったよ! ポケットに入れたはずなのに消えてるんだよ!」
パンパンと音を立てて作業着やズボンのポケットを探った菊沢さんが、やがて胸ポケットから折りたたんだ封筒を一枚取り出す。封筒には「日当」と書いてあった。
「何だよ日当って」
「さあ? 日当は日当でしょ」
震える手で菊沢さんが封筒を開けると、中から出てきたのは七千円。見るからに今日一日の日雇労働代だった。
「おい! 百万円が七千円になっちまったよ! おい滋彦! どうすんだよ」
菊沢さんに揺すられながら僕も自分のポケットを調べてみる。当然菊沢さんに貰った百万円の束など見つかるはずもなく、胸ポケット中からは同じ「日当」と書かれた封筒が出てきた。封を開けてみると僕の方には七千五百円が入っている。
「あ、七千五百円だ……」
「はあ? 何で俺が七千円でお前が七千五百円なんだよ! おかしいじゃねえか!?」
「そんなの知りませんよ」
さっきまで土地を買うだの、商売を始めるだのとビッグな夢を語っていた菊沢さんが急に細かくなっている。
「とにかく、今がいつなのか調べる必要がありますよね」
「まあそうだな。よし! 滋彦、お前の方が五百円多く持ってるんだから、新聞とか買ってこいよ。そうすれば日付も判るし、社会の動きも読める。あと、喉が渇いたから牛乳買ってきてくれ」
まったくこの人は、と思ったものの、よくよく考えると僕の窮地を救ってくれたのは事実であって、その命の恩人のために僕は新宿駅の売店へと向かう。
売店に行く道中で僕はひとり考えた。あの三億円事件とはなんだったんだろう、あれからモモエちゃんはどうしたんだろう、最後にもう一度会いたかった。彼女は何も知らないかもしれないけれど、会って「いろいろごめん」と謝りたかった。
――そしてそれは、売店で新聞を買おうとした時だった。
新聞ラックの新聞を取ってお金を払おうとしたら、女性週刊誌の表紙が目に飛び込んできた。僕は思わずその文字をつぶやく。
「モモエちゃん……、婚約おめでとう……、え?」
週刊誌と新聞を握りしめ菊沢さんのもとへと走る。菊沢さんに言われた牛乳なんて買い忘れたけれど、そんなことはどうでも良かった。ただただあの子が幸せになってくれたことだけが嬉しかった。
「菊沢さん、菊沢さん、菊沢さん!! モモエちゃん、ちゃんと大スターになってましたよ! ほらほら、僕の言った通りでしょ、見てくださいよこれ!」
菊沢さんは「へえ、お前の言ったこと本当だったんだな」と言った後、さして興味も無さそうに新聞に目を移す。
「ちゃんとちゃんと、見てくださいよ! ほら、僕がこの子を励ましたり、真剣に相談にのったりしたんですから……」
必死に女性週刊誌を見せようとする僕を遮って、新聞の日付を確認した菊沢さんが大きく目を見開いた。
「おい! 滋彦! 今日は昭和55年4月25日だぞ!」
新聞の日付を指さして菊沢さんが叫ぶ。
「そうみたいですね……、だからモモエちゃん……」
「そうみたいですね、じゃねえだろ! いま何時だ、4時か……。よし! まだ間に合う。行くぞ、銀座に行くぞ」
銀座? 七千円しか持ってないのに銀座? この薄汚れた服装で銀座? 菊沢さんがついにオカシクなったのかと思った。
「どっちかって言うと、銀座より新橋とかじゃないですか? 七千円しか持ってないんですし」
「バカ!! お前何にも知らねえんだな、まあしょうがねえか。今日の夕方6時頃、銀座のど真ん中で現金一億円が拾われるんだよ! それを俺たちが先に行って拾ってやるんだ! さあ行くぞ」
「現金……一億円……?」
なんだかそんなミステリーをテレビで見た覚えがある。トラックの運転手だった人が拾って大騒ぎになった一億円。結局落とし主が現れずに拾った人のものになったような……。
「おい、何してんだ? 時間がねえんだよ」
「き、菊沢さん! ちゃんと警察に届けるんですよ!」
「んなもん、ネコババするに決まってるだろ!」
「ダメです!!」
僕は菊沢さんの背中を必死で追いかける。その背中を傾きかけた西日が照らしていた。




