第37話 転生したら三億円事件の犯人だった
ドアからぬっと現れた菊沢さんに向けて、戸崎編集長と呼ばれた男はピストルを動かす。
「菊沢ちゃん……、なんだかアンタもこっちに来てるような気がしてたのよね。なんで分かったの?」
「おっと、こんなところで発砲したら編集長の策も水の泡でしょ。そんな物騒なモノは使わないほうがいいですよ、別に戸崎編集長と対決しようとは思ってませんからね。なんで分かったって、筆跡に決まってるでしょ。編集長の字は特徴的ですから」
菊沢さんは床に散らばった五百円札をチラリと確認しながら僕の方へやって来た。こんな状況なのにニヤけたその顔を見ると、ちょっとため息をつきたくなる。
「菊沢さん、その男は知り合いなんですか?」
「ああ知り合いさ。アッチの世界で原稿を書かせてもらっていた出版社の戸崎編集長だ」
あっさりとそう告げると菊沢さんはタバコを取り出して火をつけ、美味そうに煙を吐き出した。その間、戸崎編集長はさっきの纏わりつくような視線で菊沢さんを見つめている。
「で、戸崎編集長。編集長もやっぱり転生ですか?」
妙に軽い口調の菊沢さんの問いに、戸崎編集長は鼻で笑って応えた。
「ふっ、転生ね。アンタにあんなことを言ったからこうなったのかしらね。でもいいのよ、こうやって三億円は貰えそうだから。ねえ菊沢ちゃん、菊沢ちゃんさえ良ければわたしと組まない? その内田滋彦に罪を着せたら終わりでしょ。悪いようにはしないわよ、取り分は7:3でいいけど、どうする?」
思いもしないその男の言葉に、僕は菊沢さんを凝視した。自分と出会う前から知っている、しかも仕事の関係だというこの男の誘いに菊沢さんが乗らないとも限らない。確かに菊沢さんとは一ヶ月半も一緒に暮らしてきたけれど、遊び回る菊沢さんに苦言を言ってきたのも事実。トルコに連れて行ってやると何度も言われたのに、そのたびに邪険に断っていたのも事実。もしかしたら、もしかしたら菊沢さんは……。
「そうですね、それもいい考えですね」
こっちの方を向いてわざとらしくニヤリと笑う菊沢さんを見て、僕は全身から力が抜けそうになった。
「なに情けない顔してるんだよ、バカ。冗談だよ、冗談。編集長、せっかくのお誘いですけどお断りしますよ。コイツを一人にして死んじまったら寝覚めが悪い」
「へえ、勿体無いねえ。菊沢ちゃん、後悔するよ」
戸崎編集長が顔をしかめ、ふん、と鼻を鳴らしながら僕と菊沢さんを交互に眺める。
「後悔ですか。ああそうだ、後悔しないために聞きたいんですけどね、どうして編集長は滋彦を見つけられたんですか? 正直言って何か手がかりが無いと無理でしょう、砂漠で指輪を見つけるようなもんだと思いますけど」
「ああ、それね。こっちの世界でわたしの愛車だったらしい盗難車のスカイラインが横須賀で放置してあるから取りに来い、っていう連絡があったのよ」
「スカイラインが編集長の持ち物?」
菊沢さんがこれ以上にないという変な顔をする。逃走で使ったスカイラインがこの男の持ち物だったという意味が僕にも解らない。
「わからないでしょ? 娑婆の土産に軽く説明してあげるわ。あのねえ、わたしが転生した時にどんな場所にいたと思う? 暗くて湿気のある倉庫みたいなところだったわ。そこにはね、オートバイを改造した残りやら、新聞紙の切れ端やら、スプレーの空き缶やらいろいろあった。そして……ビックリしたのがね、わたしのポケットには三億円事件を計画したメモがあったの。逃走用車両からルートからみんな書いてあったわ」
突然の告白に僕も菊沢さんも開いた口が塞がらなかった。もしかしたらこの編集長の転生した先というのは……。
「最初は何がなんだか分からなかったけど、しばらくして気がついたのよ。わたしは三億円事件の一味に転生したんじゃないかって。メモにはK1とかK2とかMとか書いてあってさ、これは犯人のイニシャルだと直感で思ったわけ。でもわたしの知ってる犯人の内田滋彦ならイニシャルがUかSじゃない? それからいつまで経っても誰も姿を見せないし、ニュースでは三億円事件は成功しているし、まあ半月ほどは混乱したわ」
「そこにスカイラインが放置してあるって連絡があったのか……」
菊沢さんが舌打ちをしながら渋面をつくった。横須賀市内の団地の外来駐車場に停めて以来、僕も菊沢さんも自動車の確認に行っていなかった。これは失策といえば失策だった。
「そういうこと。なんでわたしのスカイラインを自分たちで盗んだことにしたのか、これは犯行を隠すアリバイ作りだと思った。じゃあどうして帰って来ないのか? それはもしかしたら横須賀に潜伏してるんじゃないかって考えて、スカイラインの停まっていた団地を中心に探っていたら……。見つけたのよね、そこにいる内田滋彦くんを。もうKとかMとかの意味はどうでも良くなったわ、だってわたしの知ってる犯人の内田滋彦がいたんだから」
そこから先は僕にも想像がついた。菊沢さんは朝出かけたら帰ってくるのは夜で、昼間に部屋を出入りするのは僕しかしない。だから部屋に住んでいるのは僕一人だと勘違いをした。そして僕とモモエちゃんが親しく話しているのを何度か確認して、この女の子は使えると思ったのだろう。三億円の隠し場所にしてもアパートの中にあるかどうかも分からない。それなら僕自身に持ってこさせた方が確実だ。つまり、そのためにモモエちゃんは攫われたということだ。
考えてみればアパートに近づくリスクもなく脅迫状を渡し、部屋の中を漁ることなく現金を手に入れる。悪知恵とはいえよく出来た策だと感じる。
「戸崎編集長、話はわかりました。アンタも転生したら三億円事件の犯人だった、って訳ですね。こりゃ傑作だ、おかしいや」
ゲラゲラと笑い出す菊沢さんの真の意図が分からないのか、戸崎編集長はジロリとした目でこちらを睨み、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ふん、まあどうでもいいけど、これが最終通告よ。菊沢ちゃん、一緒に組まないのね」
「ええ、コッチの俺は滋彦の保護者みたいなもんですからね。どうぞ、三億円はあげますから女の子を解放して下さい。俺が一緒に逮捕されたら滋彦も死ななくて済むかも知れませんからね」
それだけ言うと菊沢さんはドッカリと床に胡座をかいて座り込んだ。僕は想像もしていなかった菊沢さんの優しさに言葉も出ない。
「ふん! 菊沢ちゃん、アンタもあっちの頃から頑固な人ね。じゃあおとなしく警察に捕まって、ニュースに自称:菊沢典弘って出るのも楽しみにしてるわ」
捨て台詞を残して戸崎編集長はドアを開ける。ピストルでこっちを牽制しながら、ひとつづつスーツケースを外に出していく。やがて恨めしそうに菊沢さんをひと睨みして夜の闇に消えていった。
◇ ◇ ◇
「菊沢さん……、すいません、僕のために……」
戸崎編集長が消え、ようやく僕は菊沢さんに話しかけることができた。その瞬間菊沢さんは「シッ」と唇に指をあて、何もしゃべるなというポーズをとる。
「いいか滋彦、もうすぐ大捕物が始まる。警察がこの周辺を取り囲んでいるはずだからヤツは捕まる。その混乱に乗じて逃げるんだ」
僕には菊沢さんの言っている意味が全然理解できなかった。警察が取り囲んでる? ヤツが捕まる? 僕が逃げたらモモエちゃんはどうなるの? 色々な疑問が頭をグルグルと回る。
「菊沢さん! 僕たちが逃げたらモモエちゃんが!」
「バカ、滋彦。お前の言うモモエちゃんっていう子は最初から誘拐なんてされてないんだよ!」
「へ?」
「へ、じゃねえよ。俺が警察に確かめたんだよ、山口モモエっていう子はちゃんと家にいたんだよ。ったく、完全に騙されやがって、これだからお子ちゃまは……。あの男が誘拐なんていうリスクを犯すかよ、首尾よく三億円を手に入れてもそっちの方からお縄になるだろうが。お前が騙されれば良し、そうじゃなければ次の策を考える。どうせそんなところだったんだろう……」
菊沢さんはブツブツと言いながらドアを開け、外の様子に耳を澄ませている。僕はいまだに何がなんだか分からない。やがて菊沢さんの言う通り、それほど遠くない場所で押し問答のような声が聞こえたかと思うと、警笛が鳴り響いた。
「おい滋彦、逃げるぞ! 笛の反対側はコッチだ!」
◇ ◇ ◇
僕と菊沢さんは走った。夜の街を警笛が鳴る方向とは逆に走り通した。本当にモモエちゃんが無事なのかどうか、ここは菊沢さんを信じるしかない。警察が取り囲んでいて戸崎編集長が捕まると言っていたことも現実になった、多分菊沢さんの言っていることは本当なのだろう。
時間にしたら五分か十分か。走り通した結果、僕たちは静寂に包まれた街に落ち着いていた。警察の足音も何もしない、辺りは薄暗い街頭に照らされた夜の街だった。
「ハア、ハア、滋彦……、死なずに済んだな……、ハハハ」
「菊沢さん……、ありがとうございます、モモエちゃんはホントに無事なんですよね。それからアイツが三億円事件の犯人として捕まって……、僕たちは逃げて。でも、でも、お金無くなっちゃいましたね、僕のせいで……」
僕の話を聞きながら息を整えた菊沢さんは、ニヤリと笑いながら「ほらよ」と僕に何かを放り投げる。
「えっ、これって菊沢さん! 抜いてたんですか!?」
「おう、お前の分の100万だ、俺の分も100万ある、この時代にしたらちょっとしたカネだ。もうすぐ新しい戸籍も手に入るし、ギャンブルはもうやめだ、これからの時代は土地だ。ちゃんとした身分証が手に入れば土地転がしで成金になれる、この国はこれから20年も土地が値上がりし続けるんだからな!」
豪快に笑いながら菊沢さんが僕の背中を叩いた。
「痛い! 痛いですよ菊沢さん!」
「なに言ってんだ、ありがとうございます、だろ!」
◇ ◇ ◇
僕たちは夜の街を笑いながら歩いた。どこの土地を買うか、どんな商売が当たるか、念の為に首都圏は離れて大阪に行くか、そんなことを喋ったと思う。
やがて僕たちは甲州街道に突き当たった。夜でも通行量はそこそこある道路で、僕も菊沢さんも青信号になるのを待って交差点を渡り始める。
もうすぐ渡り終える、というその時。
――僕たちは信号無視の暴走トラックに跳ね飛ばされ、宙を舞った。




