第32話 邂逅 その1
俺は今日ほど自分を呪ったことは無かった。
久しぶりに日曜の中央競馬にでも行こうか、と思ったのがいけなかった。いや、なにも午前中から競馬に行くことも無かった。午前中はトルコにでも行ってスッキリしたあと、午後のメインレースの頃に行けばよかった。そもそもそんなことより「ホントに、よく飽きませんね……」と滋彦に嫌味を言われた時に、出かけるのをやめておけばよかった。
――あの日に入った店だから今日も入ってみるか、なんて思わなければよかった。
◇ ◇ ◇
定食屋だか飲み屋だかわからない店のカウンター席で俺はメシを食っていた。
店に入った時に店主が二度ほど俺の顔を見たのが気になったが、年末の有馬記念で馬券を外した時に大声を上げたのがマズかったかと、俺は愛想笑いをしながら席についた。
なにしろ残り10日ほどで偽の戸籍も手に入る。そうしたら横須賀を引き払って関西に逃げるか、それとももっと遠くへ行くか。そんなことよりも午後のメインレースはどの馬から買おうか。いろいろ妄想しながらビールを飲んでいると自然に笑みもこぼれる。もう木幡のことも三億円事件のことも、あのタコ社長のことも全て済んだことにしたかった。そんな自分の時間を楽しんでいる時に……
――あいつら二人は入ってきた。
俺の座っているカウンターから店の入口はよく見える。ガラガラと引き戸を開けたのは若い男だった。その男を俺はどこかで見たことがあるような気がしたけれど、こっちの世界ではそんなに知り合いなどはいない。自分の思い違いだろうとビールを口に含み飲み干そうとした瞬間、俺は自分の目を疑った。続いて入ってきた中年男、この男は間違いなく国分寺ですれ違った人物そのものだった。
「こんにちは、席は空いてるかい。あれから変わったことはあったかな?」
中年男が店主の親父に声を掛ける。店主はギョッとした顔をしたあと、俺の方をチラチラと確認しながら「へえ、まあ、いや……」とオドオドとした仕草を見せた。二人の男は店主の動揺を見て首を捻りながらコチラを見る。
俺と中年男の目が合った。人を確認し、疑い、そして粘りつくようなその視線。やっぱり警察関係だと確信する。他にこんな目つきの人間がいるとすればスクープを狙う記者くらいのものだ。
「あなた、もしかして年末の有馬記念で大勝負した人ですか? あの時は大変な騒ぎようだったと聞いてますよ」
他のカウンター席も空いているというのに、中年男はわざわざ俺の隣に座った。若い方の男はその隣に陣取ってこちらを睨んでいる。
「それに……、私はあなたとどこかで出会ってませんかねえ。例えば国分寺とかで」
俺は背筋が寒くなり、奥歯がガタガタと鳴り出す寸前までパニックに陥った。激しく脈打つ心臓を素手で掴まれたような気がして吐き気さえ催す。
「ああ? アンタたち誰だ? 俺になにか用かよ……」
からくも俺はそれだけを口に出来た。ビールを一口飲み、異常な喉の渇きをいやす。有馬記念の日の出来事を店主が喋ったのだと分かり、店主の方をチラッと睨んだ。店主はバツの悪そうな顔をしながらコチラの様子を窺っている。
「いやあ、我々はある人を探していましてね。横山という名前らしいんですが、あなたが横山さんかなと思ってねえ」
「横山? 横山なんて知らねえよ。お生憎さまだな、俺は違うよ」
「ほう……、じゃあ申し訳ありませんが、あなたのお名前は?」
ねっとりと絡みつくような話しぶり、油断のならない目つき、間違いなくコイツらは警察だ。問題はコイツらが何をどこまで知っているのか。
「アンタらなんだよ? 人にものを聞く時は自分たちから先に言うもんだろ、アンタら警察か?」
「ええ、まあ……」
中年男はなぜか歯切れが悪そうに言葉を濁し、財布から一枚の名刺を出した。それを見るとこの男は警視庁府中署の巡査部長で、田辺というらしい。やはり俺の予想通り刑事だった、しかしちょっとおかしい、身分を証明するなら警察手帳を出したほうが早そうな気もするが……。
「へえ、府中署の刑事さんが何でこんなところにいるんだ、アンタたち本物か? 警察手帳も見せてみろよ」
「あいにく今日は持っていません、しかし我々の身分は本物です」
「はあ? なんだそりゃ」
予想外の答えに久々に素の声が出た。中年の田辺刑事は仏頂面で正面を睨んでいて、年若の方の刑事は苦虫を噛み潰したような顔で握った拳をプルプルと震わせている。
ここで俺は大方の予想をつけた。今日この二人は捜査でここに来たのでは無いのではないか? 神奈川県警の刑事ならいざしらず、警視庁の刑事が横浜をウロチョロしていて警察手帳を持っていない理由が他に無い。
「まあいいや、アンタたちが警視庁の刑事だとしてもだ、俺が何か喋らなきゃならない義理はねえよ。じゃあな、失礼するよ」
頼んだ定食も半分くらい残っているしビールも飲みかけだったが、俺はいち早くこの店を出て、そして刑事の前から消えたかった。
俺が腰を浮かせようとしたその瞬間、田辺刑事がボソッと呟く。
「コワタの上着は……、もう警察に届けましたか? アナタが拾ったっていうコワタの上着ですよ」
それを聞いた俺は、椅子から離れること出来なくなった。
――木幡の上着のことまで知っていやがる。あのタコ社長のやろう、いったいどこまで喋った……。
「コワタ? なんだよそれ。コナカの背広なら持ってたけど、コワタなんて知らねえな。ハハ……、アンタらにはコナカが判らねえかな、コナカっていうのはなあ……」
「ところで有馬記念ではいくら負けました?」
田辺という刑事は俺の無駄話をバッサリと遮った。相変わらず視線は正面を向いたままだ。
「はあ? 勝ったか負けたかなんてアンタに関係ねえだろ」
「そこの場外馬券場で有馬記念の日に600万円分も馬券を買ったヤツがいましてね、二人連れだったそうですよ。知りませんか?」
さっきからコイツは俺の話を聞かず、自分の話す内容に俺がどう反応するかを読んでいる。有馬記念の600万にしても木幡の上着にしても、何もかもだ。ただ現実にこの世界で俺は木幡とは何の繋がりも無いし、例のモンタージュ写真の男とも似ていない。
俺達すら自分らが何者か推測できたのがつい最近のことだというのに、まさかコイツらが転生なんていう思いつきを出来るはずがない。結局のところ、ここは知らぬ存ぜぬで押し通せばそれで大丈夫なはず。
「知らねえな。俺は有馬記念で600万円も賭けてねえし、コワタの上着なんていうものも持ってねえ。国分寺なんて行ったこともなけりゃ、アンタに会ったこともない。だいたいアンタ、令状も何も持ってねえんだろ、もう自由にさせてもらうからな」
今度は本当に腰を浮かし、俺はコップに残ったビールを飲み干した。ふと隣の刑事を見ると、中年の刑事がまだ真っ直ぐに正面を見ているのに対して、若い刑事が俺の握ったグラスを注視している。
「ハッ……、なるほど……。おい、オヤジさんお勘定! それから俺の使ったこの食器を俺の目の前で綺麗に洗ってくれ、この人たちに疑われてるみたいだからな」
「おいお前! なんでそんなことを!」
「やめたまえ藤岡君……」
若い刑事が文句を言いかけたが、中年男がそれを制する。俺はコップや茶碗がキッチリと洗われるのを確認し、指紋がつかないように千円札をカウンターに置いた。
「じゃあ、刑事さんたち。もう会わねえと思うけどさ」
捨て台詞を吐いたその時、中年の田辺刑事が目を瞑ったまま腕組みをして口を開く。
「横山さん。いや、横山という名前かどうかも怪しいもんですが、そこのあなた。もし何かありましたら名刺に書いてある府中署の田辺まで電話を下さい。人生にトラブルは付きものですから」
「ああ、殺されそうになったら電話するよ、じゃあな」
俺は手の甲を使って引き戸を開け、暖簾をくぐって外に出る。
外は鉛色をした一月の空だった。




