表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/39

第30話 悪党の一味

 誰もいない部屋に僕が着いて三十分以上が経った頃、ようやく菊沢さんは帰ってきた。その菊沢さんはまったくもって普段と同じか、もしくは普段以上に陽気な様子で僕に話しかけてくる。


「おう滋彦喜べよ、なんとかなりそうだ!」


 にこやかに笑う憂いのない表情と僕が帰ってからの時間差を考えると、さっきモモエちゃんが見たという不審者は菊沢さんでは無いと判断できそうだ。しかも「喜べ」と来たもので、少し緊張して待っていた僕は逆に不安になった。


「喜べと言われて素直に喜んだらいいんですか? わ~い! って……」


「お前……、なにを捻くれた子どもみたいなことを言ってるんだ、もっと人の話を素直に聞けよ。俺が一生懸命歩き回って来たんだからさあ」


 菊沢さんは靴を脱ぎながら買ってきた一升瓶を床に置く。途端に漂ってくる蒸れた臭い。ここ数日菊沢さんは本当に一日中靴を脱ぐこと無く歩き回っているらしく、帰宅するたびに足の臭いがキツくなっている気がする。


「パンパカパーンだ! さて嬉しい報告をしてやるぞ。俺とお前は晴れてこの世界で戸籍をもつことが出来そうだ! 俺が兄でお前が弟。俺は33歳にして、お前は25歳になってもらう、別にいいだろうそれくらいの年齢でも」


「……え、なんのことですか?」


「戸籍だよ、戸籍! 俺が毎日苦労してるの誰のためだと思ってるんだよ、ったく……」


 先程のモモエちゃんの一件が頭に残っていたため、僕は菊沢さんが外出している当初の目的を忘れてしまっていた。どうやらこのところの菊沢さんの努力が実って、偽りの戸籍を入手できる見込みが立ったようだ。一升瓶の封を開け、波々とコップに注いだ酒を菊沢さんは美味そうに飲んでいく。どこで買ってきたのか酒の肴には焼き鳥とイカの天ぷらが紙袋に入っていた。


「戸籍! 何とかなりそうなんですか!? 凄いですね菊沢さん」


「まあな、これも俺の人徳ってヤツかも知れんな。いろいろとスジを当たって何とかなったんだ」


 イカの天ぷらを口で噛みながら得意げに話を始める菊沢さん。僕の興味はすっかり謎の人物から離れ、菊沢さんがどのように戸籍を手に入れようとしているかに移った。


「で、どうやって戸籍を手に入れるんですか」


「ははん、まあ慌てるなって。大丈夫だから」


 またまた出てきた菊沢さんの「大丈夫」に少し不安を覚えながらも、僕は次の言葉を待つ。


「なあ滋彦……、満州って知ってるよな、餃子じゃねえぞ。満州国だ」


 満州国――、いまの中国東北部で戦前から戦中にかけて日本が作った傀儡国家。映画、ラストエンペラーの題材にもなった皇帝溥儀の国。南満州鉄道に張作霖爆殺事件、そんな歴史上の言葉が僕の脳裏をよぎる。


「ええ、満州国くらいは知ってますよ。戦前に日本が中国大陸に作った国ですね、それが何か……」


「俺達はなあ、そこで生まれて命からがら引き揚げてきたことにするんだ」


 少し哀しげな顔をした菊沢さんはコトリと床にコップ酒を置き、マッチを擦ってタバコに火をつけた。二度三度と紫煙を吐く菊沢さんを僕は不思議な思いで見つめる。


――満州で生まれた? そこから引き揚げた? いったいこの人は何を?


「やっぱりな、さっぱりわからん、っていう顔をしてるな? まあそうだろう、すぐに分かるようなもんじゃねえからな」


 菊沢さんはフフフと笑い、もみ消したタバコを灰皿に捨てる。一度大きく深いため息をついたところを見ると、何か言いにくい屈託がある様子。


「俺たちが生まれる前の昔、この国には大きな悲劇があった。まあいわゆる戦争ってやつだ……」


 淡々と、そしてわざと感情を込めないかのように菊沢さんは語り始めた。戦前から戦中にかけて満州や南洋諸島に行った開拓団の歴史のことを。ある人は農家の口減らしに、またある人は自分の夢を求めて、海を渡った人々はそこで生活をし、そしてその後の歴史に翻弄された。


「満州からの引き揚げが大変な混乱だったことくらい知ってるだろ、残留孤児が出るくらいの混乱だった。引き揚げては来たものの、金も食い物もねえ、それどころか両親すらいねえ子供だっていたはずだ」


「それじゃあ、それになりすまして……、でも菊沢さんそんな昔の話を……」


「俺たちのいた時代と違って、戦後24年っていうのは、そんなに昔の話でもないさ……」


 そう言うと菊沢さんは再びグイッとコップ酒をあおる。


「とにかく、海外からの引き揚げ者には『引揚証明』とか引き揚げの時に乗った船の『乗船証明』とかが出るんだけどな、それを無くしちまったまま大きくなった兄弟っていう設定で行く訳だよ」


「でもそんな……。じゃあこの24年僕たちはどうやって生活してたことになるんですか? そんな幼い兄弟がどうやって二人で」


 戦後の混乱期、計算では当時9歳と1歳の兄弟がどうやって世間の荒波を乗り切って、その後どうやって成人になるまで過ごしたというのだろう。


「滋彦……、勘違いするなよ。実際に俺たちがその24年を生きてきた訳じゃない、そういう設定だよ。で、とにかく俺たちが満州から引き揚げてきたことを第三者の誰かに証明してもらえれば、まあ戸籍も取れるっていうことさ。一緒の引き揚げ船だったとか、満州の同じ村に住んでたとか、そういう証明をしてくれる人が必要な訳だ」


「そんなのを証明してくれる第三者って、誰ですか?」


 僕がその質問をした時、菊沢さんは苦虫を噛み潰したような顔をして、その後ゆっくりと目を閉じた。これはマズイことを聞いたと思った僕が何か取り繕おうとしたその瞬間。


「――成田だよ」


 菊沢さんがポツリと呟く。


「滋彦は知ってるか、成田空港を作る時に派手なドンパチがあったことを」


「ええ、まあ、成田空港反対派と揉めたことは知ってます」


 成田空港を作る時に土地収用に関して国と地元住民で死人が出るほど派手な闘争があったことは、歴史上の出来事として知っていた。学生運動と時を同じくして起こった反体制運動ともいえる。


「それな、空港予定地に元々いた農民の人たちってさ、満州から引き揚げてきた開拓団の人たちが結構いたんだよ。それで自分たちがやっとこさっとこ開墾した土地を、今度は空港作るから出て行けって言われてもな……、そりゃ怒るよなあ」


「そうだったんですか、僕は何かのテレビで見た火炎瓶とか、バリケードとかの印象が強くて」


 それを聞いた菊沢さんは、なぜか半笑いになりながら焼き鳥を食べ、また日本酒を飲み干す。


「そう、空港反対から始まった成田問題はどんどん過激に変わっていくんだ。新左翼とか過激派とかに先導されて、もうその本質がどこにあるのかわからないくらいに闘争が激化する。そんな中で、争いに疲れちまった農家の人が脱落者として出てくるのも不思議じゃないよな……。俺は汚いヤツかもしれん、そんな疲れ切った農家の人に多額の移住費を渡して第三者の証明をもらおうって言うんだからな」


 菊沢さんの屈託が僕には少しわかった。自分の安全のためとはいえ、弱った他人に付け込むようなことはしたくない。過去には新聞記者をしていて、多少なりとも社会的な正義感を持つ菊沢さんにとっては、そういうやり切れない感情が溜まっているのだろう。


「菊沢さん、でも、本当はもうやりたくない成田闘争をやらされてる人にしてみたら、菊沢さんの申し出は渡りに船のところもあると思いますよ。悪いことと言えば悪いことですけど、ほら()()()()()()()()とか言うじゃないですか」


「お前それフォローしてるつもりかよ……。まあ、あとは司法書士に依頼して10日ほどもあったら片がつくと思うからさ。じゃあ、ほら、出せよ」


 10日ほどで片がつくと言った菊沢さんは、「出せよ」とお手をさせるように片手を僕に突き出した。何だかよくわからないけれど、お祝いのタッチかと思って僕は菊沢さんの手のひらを上からパンと軽く叩く。


「……はあ、なんだよそれ」


「お祝いのタッチ、じゃないんですか? 戸籍問題解決の」


「滋彦、お前いまの話を聞いてなかったのか? 農家の人にカネを渡すって言っただろ」


「へ……」


 菊沢さんの話と今の会話が僕の中ではつながらない。



「何が『へ』だよ、カネがいるに決まってるだろ。お前の分の200万、早く出せよ」


 こうして僕も戸籍をカネで買う悪党一味になり、先程の不審者のことなど忘れてしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ