第29話 禁じられた遊び
翌日から菊沢さんは昼前に出かけて夕刻には帰ってくる生活を始めた。平日の昼間から行くところといえば公営ギャンブルから始まって高価な風呂、そして飲み屋へのコースが定番だったのだけれど、戸籍の偽造を思いついた菊沢さんは別人のようになった。
◇ ◇ ◇
「菊沢さん……、あの話は小説ですよ? そんなにうまく行きますか?」
「なに言ってるんだ! 松本清張大先生が書いてるんだぞ。それに今はまだ昭和44年、終戦後24年しか経ってないんだから何かいい方法がある、任せとけ! カネなら有るんだ!」
◇ ◇ ◇
あの日の夜に交わした会話を思い出しながら、今日もまた僕は菊沢さんの背中を見送った。
新しい年が明けてからというもの、世間では『三億円事件』の話題が出てこない日がチラホラと表れ始めている。折しも学生運動が激しくなってきており、東大安田講堂に立てこもる学生運動家をどうするか、という話題が三億円事件に取って代わろうとしていた。
そんな僕にとってはある意味「平穏な日常」が続いていた日々。僕は例のモモエちゃんと度々会って話す機会を得ていた。
彼女にとって僕はただの話し相手だったのかもしれない。それでも僕にとっては未来の大スターの話を聞いたり、相談に乗ったりすることが楽しみにもなってきていた。菊沢さんにはモモエちゃんのことを未だに言えずじまいで、そんな部分も僕にとっては特別な「日常の中の非日常」を感じていた。
三度目に彼女と出会った公園にある小さなお地蔵さんのお堂。そのお地蔵さんの後ろに置かれてあった一枚の紙切れを僕は取り出した。そこに書かれているのは「◯日の◯時頃」という小さく可愛い文字。つまりそれが僕と彼女の連絡手段で、そこに丸の印をいれると僕が見た証拠で、丸が書かれていないと僕が見ていないのでモモエちゃんが待ちぼうけをせずに済む、という単純な通信手段だった。
今日はその紙切れに書いてあった時刻がすぐに迫っていて、そこに丸の印をつけるまでもなく彼女がやって来た。僕が手に持ったパン屋の袋を見つけると、モモエちゃんは可笑しそうにそれを指差して笑い始めた。
「滋彦お兄ちゃんってホントにクリームパンが好きだよね」
「いや、これはキミが来るかなと思って……、まあいいや、今度はパンじゃないものにするよ」
ケラケラ笑う彼女にパンを渡し、二人の他愛もない話が始まる。学校での出来事やこの前の誕生日のこと、友達関係の悩みなどを聞いているうちに、ふと真顔になったモモエちゃんが僕に尋ねてきた。
「ねえ、前から聞きたかったんだけど、お兄ちゃんて大学生だよね?」
「うん、まあ一応大学生だけど……」
僕は語尾を濁した返答しかできなかった。あっちの世界では大学生だったけれど、こっちの世界ではそんなご身分でもなく、ただの逃亡者でしかない。
「そうだよね、だって昼間から買い物してるし、夜に働いてる感じでもないし。大学に行けるなんて家がお金持ちなのかなあ、って思ってた。パンも買ってくれるしね」
「お金持ち……、いやどうかな、うーん、お金持ちかな」
なんだか彼女にウソをついているようで自分の胸が痛む。なにしろお金持ちというよりも、いまの僕にはお金しかない。
「ねえねえ大学って楽しいとこなの? 私の周りで大学に行ってる人なんていないし、ウチは貧乏だから行かせてもらえそうもないし……」
「いつも楽しい……ところでもないかなあ。講義とか勉強が楽しいと思ったことは無いけど、友達と遊んでいる時は楽しいっていう感じかな」
この当時の進学率がどの程度か詳しいことははっきり知らない、それでも男女合わせても18歳人口の2割くらいだろうかと想像してみる。ただそんなことより、キミなら大学に行かなくても近いうちに日本中を魅了する存在になるから心配しなくていいよ、と心の中で声を掛けた。
「ふーん、そうなんだ。わたし不思議なんだよね、ほら、テレビでやってる大学で石を投げたり椅子を投げたり、あとバリケードとか作ったりして立て籠もってるアレ。あれってあの人達は何に怒ってるの? お兄ちゃんは大学生なのにああいうのに行かないの?」
「ああ、アレね。学生運動ね……」
正直に言って僕の知識としては『その昔、この国にも学生運動なるものがあった』というくらいで、その運動の原点が何か、反体制なのか、反米なのか、あるいは日米安保条約反対なのか、そこまで詳しい学生運動の歴史を知らない。当時の若者の中に燻っていた何かが爆発したのであって、あの学生たちが何に怒っているのかなんて、目の前のモモエちゃんに説明できる知識も教養も僕には無かった。
「あれは結局いろいろと理由はあるんだろうけど、つまり現状に不満のある学生が『こんなんじゃダメだ!! 俺たちの意見も聞け!!』って怒ってるんだ……と思う……よ。……あれ?」
なんとなく曖昧に答える僕を、彼女は両手で頬杖をついてジトッとした目で見ていた。映画のワンシーンでも見るように大きく息を吐き出した後、半ば呆れたような声でモモエちゃんは僕に言う。
「よーくわかりました! お兄ちゃんはああいうのにまったく興味がないってわかりました。何ていうのかなあ、全然ああいう人たちと雰囲気が違うんだろうなあ。やっぱり滋彦お兄ちゃんはいいとこの家の子なんだろうなって思っちゃう、全然苦労してる感じには見えないもん」
「アハハ……、僕は苦労してるようには見えないかな」
今のところ苦労していることと言えば『三億円事件』で警察から逃げること。実際にそれ以前では、モモエちゃんの言うところの苦労という苦労はしていないに等しい。
「見えない見えない、ぜーんぜん見えない」
肩をすくめてそう言ったあと、彼女は足をプランプランさせながら遠くを見つめる。
「私ね、中学校に入ったら新聞配達しようと思ってる。それから早く働いてお金稼いで……。そしたらお母さんも少しは楽になるかなって」
「そう、やっぱり、働いてお金持ちになりたい?」
「うーん、どうかな……。お金持ちになりたいかどうかっていうと、なりたいけど……」
そこまで言ったモモエちゃんは少し首をひねって考え、そして笑いながら僕の方を振り向いた。
「お金がある人が幸せかどうかなんてわからないでしょ。私はね、幸せになるためにお金があればいいなって思ってるの。私の思う幸せってね、ホントの家族を持つことなんだ……。素敵な男の人と結婚して、その人は私のお母さんも大切にしてくれて、子どもも二人くらいいたらいいなあ。ホントの家族を作って大切にしたい」
夕焼けの空の下、楽しげに未来を語る彼女を見ながら僕はその存在に圧倒されていた。この子はこの頃からの夢を叶えたくて真正面から自分の人生にぶつかって行った、そういう星の下に生まれたのだと。
「それからね、私ってわがままで気が強いって言われるから、そういうのを許してくれる年上の人がいいな。結構年上でもいいよ、お兄ちゃんは二十歳くらいでしょ? 私が二十歳になったらお兄ちゃんはまだ三十歳だから可能性あるかもね!」
「まあ、その頃になってキミに会えたら是非……」
その頃のキミは惜しまれながらも華やかな世界を引退し、素敵な男性と結婚している。そしてその後も僕の知る限りでは幸せな家庭を築いている。それまでにはいろいろあって、僕のことなんかはすっかり忘れているだろうけれど。
そんなことを思いながら、僕は夕焼けと彼女の笑顔が眩しいのとが合わさって目を細めた。
「なに? 赤い顔して。それよりお兄ちゃん、さっきから……。あ、もういなくなってる」
「どうしたの?」
「うん、あそこにね……」
聞けば先程から公園の入口付近に立ち止まっている人影が見えたらしい。それも僕たちの方を窺うように見ていた感じだという。
「例のその、キミの家の近くで見る女の人じゃないの? お父さんの本当の奥さんっていう女の人」
「違う違う! そうじゃなかった。でも男の人か女の人かまでは判らなかった……」
僕はその時、もしかしたら菊沢さんが見ていたのだろうかと考えた。それならば別に構いはしないけれど、そうでなければ変質者の可能性もある。もう日も傾き始めていたので、万が一を考えて今日はここで彼女と別れることに決めた。
「また紙切れを書いておくね。パンをありがとう、じゃあね」
「うん、気をつけて。さよなら」
交差点の向こうにモモエちゃんが消えるのを確認し、それからゆっくりと自分のアパートに戻る。さっき見ていたという人物が菊沢さんならもう帰っているだろうと思っていたけれど、――案に反して菊沢さんはまだ帰ってきていなかった。




