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第28話 ささやかな欲望 その2

 二度三度と紫煙を吐き出した後、菊沢さんは吸い殻をガラスの灰皿で揉み消した。その間僕は、流れるタバコの煙を無言で見つめることしかできなかった。


「あーあ……、なあ滋彦、嫌になっちまうだろ。こんな話を聞いて良かったのか悪かったのか、知って良かったのか悪かったのかってさ。無知は罪だとか何だとか昔の人が言ったけどなあ、知らないっていうことは気楽なんだよな」


 再びゴロリと横になった菊沢さんが難しいことを言い始めた。さきほどと同じようにその視線は天井のどこか一点を見つめている。


「……でも知っちゃいましたからね。菊沢さんも本心では知りたかったんでしょ、危険を侵してでも『木幡』が何者かを知りたかった、っていうことですよね」


「ああ、まあな……、フッ、ハハッ」


「なんですか? 急に笑い始めて」


「いやいや、お前さんには言ってなかったけどな、俺は自分がナニモノかが判らないのが不安だったんだよ、ずっと不安だった。それに耐えきれなくなって調べに行った結果がこれだよ。あのタコ社長から話を聞き出す時はちょっとシビレたね、新聞記者時代を思い出したよ。でもなあ、こんな話になるとは思ってもいなかった、想定の範囲外っていうのは本当にこのことだよな、お前さんには迷惑を掛けちまったかもしれん」


 こんなに自虐的に自らを語る菊沢さんは初めてだった。自分よりも歳上で、自分よりも社会経験があって、自分よりも頼りになる存在。そんな風に思っていた菊沢さんも本心では不安で不安で堪らなかったことを、いま知った。


「何とかしましょうよ菊沢さん。三人寄れば文殊の知恵じゃないですけど、一人より二人で考えたほうがまだマシじゃないですか」


「文殊の知恵ねえ、三億円事件の犯人にも文殊様はありがたい知恵を貸してくださるってか? 今度は寺参りでもして一万円くらい賽銭を入れたら話くらいは聞いてくれるかもしれんな」


 菊沢さんが寺参りをするところなど想像もつかないけれど、ギャンブル好きな人は案外と神様や仏様を頼りにするのかもしれない。

 

「菊沢さん、地獄の沙汰もカネ次第って言いますからね。いま僕たちはお金だけは持ってるじゃないですか、っていうかお金しか無いですけどね!」


「違いないな! 正真正銘、カネしか持ってねえよ……」


 そこまで話すと僕たちは二人で笑い始めた。自分たちがこの世界で誰であるのか大体の見当がついた、その上で結局持っているものはお金だけ。『現金輸送車を奪っておいてカネしかない』、ある意味そのままのシュールな状況に可笑しくなって、僕たちは二人で笑うしかなかった。



「あー、でも可笑しいよなあ。カネがあると人生楽だとしか思わなかったけど、そうは問屋が卸さないもんだな」


「普通に暮らそうと思ったら今の持ち金、っていうか盗んだお金で十分ですよ、でも警察に見つからないように暮らそうと思ったら『気楽に』とはいかないもんですね」


「あ、警察に見つからないといえば……」


 ボソッと呟いた菊沢さんが一瞬で真顔に戻る。僕がどうかしたのかと問うと「いや大丈夫だ」といつぞやのような危うげな返答。不安に思った僕がしつこく二度三度と尋ねて、ようやく嫌そうに菊沢さんは口を割る。


「いや、なに、俺の思い過ごしだと思うんだよ。タコ社長から話を聞いた帰り道に警察らしき二人組とすれ違っただけさ! 相手も俺が誰だか分からねえんだから気にしなくて大丈夫だって。大丈夫、大丈夫! タコ社長のところには俺ももう二度と行かねえし、大丈夫だって!」


「菊沢さんの大丈夫って、去年の有馬記念で懲りましたからね……」


「気にするな気にするな! 今日はいろいろあったけど最後にちょっとスッキリしたな。三人寄れば文殊の知恵か、いい言葉だ。今日はこれで寝る、明日からまた頑張ろうな、よし寝る」


 メチャクチャ早口になって菊沢さんは話を切り上げ、ガラガラとうがいをして隣の部屋に消えた。


 本当に大丈夫なのかと僕が大きなため息をつこうとした時、隣の部屋からドスドスという足音が聞こえガチャっと戸が開く。


「そうだ滋彦くん、俺は明日からちょっと野暮用で昼間は留守にする。だから留守番をよろしく!」


「昼間留守にするのは今までと大して変わらないんじゃないですか? どうせ遊びに行くんでしょ、さっきだって『捕まるくらいなら豪遊してやる』って言ってたじゃないですか」


 そんなことに呆れることもなくなった僕が当然のように告げると、()()()()()()人差し指を揺らしながら菊沢さんは苦笑いを見せた。多分本人にとっては渋い演技を見せたつもりなのだろうけれど、下が縞々のパンツなのでルパン三世にしか見えない。


「フッ、滋彦くんにはわからないだろうけど、俺には色々と深い考えがあるんだよ」


「深い考えって、どんな考えですか?」


「そうだな、俺達と『木幡』の関係、それから三億円事件の関係は大体想像がついた。これ以上あの事件に関わったり、こちらから情報を仕入れに行っても俺たちには一銭の得にもならない、ってことは判るよな?」


 このタコ! とさっきまで叫んでいた人とは思えないような口ぶりで、菊沢さんは部屋を歩きながら自分の考えを披露する、もちろん縞パンのトランクス姿で。


「で、だ。さっき思いついたんだが……」


「さっきですか!? 深い考えって言ったじゃないですか」


「うるさいな! 思考の閃きとその深さは関係ないんだよ!」


 そんなに深い思考を突然閃くような人は、みだりにタコ!タコ!と叫ばないような気がするけれど、これ以上言うと菊沢さんが怒り出しそうなのでやめておく。


「で、だ! 俺は考えたんだ。俺たちが菊沢典弘と内田滋彦だと知っているヤツはこの世界にいない。当然だけど俺たちが菊沢典弘と内田滋彦だと証明するものも無い、だから……」


「だから?」


「別人になってやるのさ! さっきお前が地獄の沙汰もカネ次第って言っただろ。この世には金さえ出せば無い戸籍を作れる方法もあるんじゃないかって思ったのさ! この先だって戸籍があったほうが良いに決まってるだろ」 


――別人になる? 無い戸籍を作る? この人は何を言っているのだろうか。


 何も言えずに口をパクパクさせている僕を、菊沢さんは自信満々に見返している。その表情は何かの確信に満ち溢れ、その握られた拳は天を突いていた。


 そこで僕は思い出す。そうだ、何と言ってもこの人は元々一流新聞社の記者をしていたのだ! 社会の裏側や隠されたトリックなどを知らないはずがない! 本当に戸籍を作れるなら警察に捕まるリスクだってグッと減るに違いない。


「菊沢さん! やりましたね!」


「おうよ! もっと褒めてくれ。 実は昼間に本屋で『砂の器』の単行本を見かけたんだよ! それをさっき思い出して閃いたぜ」


「……砂の……うつわ? 松本清張の? 小説?」


 僕は興奮していた自分のアタマがスッと冷めていくのを実感した。



<砂の器の戸籍トリック:主人公の和賀英良が戦災で焼けた戸籍を戻す際に、存在しない人間にすり替わったものです。詳しくはWeb……いえ!書籍をお読み下さい!>


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