第23話 国分寺市 ふくなが不動産 その2
カラカラという乾いた鈴の音ととも不動産屋の引き戸は横に開いた。ストーブで熱せられた室内の温かい空気が俺の顔を撫でていく。横須賀の不動産屋も小さかったが、このふくなが不動産もさほど大きくは無い。八畳程度の店先には応接セットと不動産関連の書類が入ったキャビネットがあった。
あいにくなのかこれが通常なのか店先には人の姿が見えず、俺は奥の部屋に向かって声を掛けた。
「すいません! ごめんください! 誰かいらっしゃいませんか?」
俺の呼び声に奥の部屋から小さな返事が返ってくる。どうやら店主は奥の事務室にいるらしい。やがて隅の扉が開き、見事に頭を光らせた赤ら顔の親父さんが顔を出す。その姿は海底から釣り上げられたタコを思わせた。
「ああ、何かご用かな? 今日も冷えるね。まあ座って座って」
タコの親父さんは機嫌の良さそうな声で俺に椅子を勧めてきた。どうやらこのタコさんが例の『福永勝己』氏だと当たりをつける。
「申し訳ありませんが、福永勝己さんはいらっしゃいますでしょうか……」
「はあ、ボクだけど。ボクが福永勝己、なに? 何かボクに用でも?」
そう何度もボク、ボクと続けなくてもいいだろうに、タコ親父さんは自分が福永勝己だと認めた。通りすがりの客が自分の名前を言ったのを不審に思ったのか、俺を見る目が少し細くなる。
「ああやはりそうでしたか、社長さん御本人だとは思ったんです。実は私は横山と申す者なのですが、福永さんの名刺の入ったものを拾いましてね」
「ボクの名刺の入ったもの? いやまあ職業柄もあって、ボクも名刺はたくさんの人に渡しますがねえ、それが何か?」
俺の話に口を尖らせ、まさにタコのように福永氏は首をひねった。当然自分の名刺を渡したすべての相手など覚えてもいないだろう。
「そうでしょうねえ、名刺をお渡しされた方なんて全部覚えておられないでしょうね。ご商売をされているとなおさらでしょう。その、さっき申し上げた拾ったものというのが実は背広の上着でしてね、そのポケットに福永さんの名刺が入っていたんですよ。まあ背広の上着なんて警察に届けるようなものでも無いし、そうは言っても御本人には返してあげたいし、他に手がかりと言えばネームの刺繍くらいでしてね」
「はあ……、背広の上着。そのポケットにはボクの名刺以外には何も入って無かったんですか、はあなるほどねえ」
タコの親父さんも少しは警戒心を解いてくれたのか、「ちょっと失礼」とハイライトに火をつけ、紫煙を吐き出す。
「横山さんと言いましたかねえ。まあアンタ、そうは言っても名刺を渡した人は星の数ほどいるからねえ。最近なんて忘れっぽくなっちゃって、一週間前に会った人でも忘れちゃうくらいだからさあ、嫌だねえ歳は取りたくないよ、アッハッハッハ」
「いえいえ、お顔の方もツヤツヤしておられるし、社長さんはまだまだお元気そうですよ」
ツヤツヤと輝いているのはお顔だけでは無いけどな、とは口に出さずに俺がおべんちゃらを言うと、「アッチの方はもう元気が無いんだよ」と福永氏はグイッと親指を立てる。それに対して、ウソつけこのタコ親父、絶対アンタも好き者のはずだ、などとは絶対に口の端に載せてはいけない。
「アハハ、いやいや社長さんはアッチの方もお元気で現役に違いないですよ。まあそれはさておいてですね……」
俺はここでようやく本題に入ることとする。問題である『木幡』の名前を出した時、この福永社長がどう反応するのか、それによっては話を有耶無耶にして誤魔化す道を選ぶ必要もある。質問に対して知っていることを隠しているのか、本当に知らないのか、それともこちらを試そうと逆質問するのか、こんなやりとりに新聞記者時代を思い出す。
「社長さん、実はその背広に刺繍されていたネームの件なんですけどね」
「ああ背広にネームが入っていたって言ってたね、なんていう名前だったの?」
「『木幡』っていう刺繍が入っていたんですが、そんな名前を社長さんはご存じないですか?」
完璧に話の流れに沿って不審がられずに出した木幡の名前。自分の表情が固くなった自覚もないし、声のトーンも同じままだと自信がある。その名前を聞いた福永氏の顔色を俺はジッと観察した。
「コワタ? 横山さんアンタいまコワタって言ったかい? アンタ、もしかしてそのコワタっていう字は『木』に八幡製鉄の『幡』っていう字を書くのかい?」
何かを思いついたのか福永氏の目がまたスッと細くなる。
「八幡製鉄……、ああ、新日鉄八幡のその『幡』の字です。木に幡でコワタと読むらしいのですが、ご存知ですか?」
「新日鉄八幡? そういや今度富士鉄と合併するんだったな。そうか……やっぱりその木幡氏か……」
ひとり合点をした福永氏は、「そうか、なるほどなるほど」と何度も頷いてタバコをもみ消す。
「やっぱりご存知なんですか?」
「知ってるよ、その木幡氏にはウチも迷惑を掛けられたんだ。まったく突然消えちまってさあ」
「消えた?」
「そうだよ、家賃を払わずに消えちまったんだよ。職業が警察っていったらコッチだって物件を貸すのに信用するじゃないか。だから短期間でも部屋を貸したら蒸発しちゃったんだよ。勤務先の交通機動隊に家賃の催促の電話を掛けたら逆に警察が調べに来たよ、『なにか木幡の失踪について知っていることはありませんか?』ってね。そんなことコッチが知りたいってもんだよなあ横山さん、おい、横山さん?」
タコ親父の福永氏が俺を呼びかける声がアタマの中で遠くなる。
木幡が警察官だった。そしてその木幡が失踪している。このふたつの情報を聞いた俺は、――目の前が真っ暗になったような気がした。
 




