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第21話 クリームパンの少女 その3

 彼女と別れてアパートに帰った僕はすっかり気が抜けきってしまい、しばらくの間畳の上にへたりこんだ。少女の面影に感じた懐かしさ、どこかで見たよう既視感、それらはすべて僕の思いすごしでは無かったのだ。


 あの子が伝説の歌手、そして女優として1970年代を駆け抜けた山口モモエ、その当人だったなんて思いもしなかった。少し影のあるところや大人びた表情、そして切れ長の目と八重歯のある口元、思い出せば思い出すほど記憶の中のモモエちゃんと一致する。


 たしか中学生でデビューして20歳で結婚引退。その彼女がいま10歳になるということは、あと4年くらいで音楽番組のオーディションを受けることになっていくはず。時代的に考えてみると確かにこの時期には横須賀に住んでいるし、そして偶然出会ったとしてもおかしくない、――そう、おかしくはないのだけれど……。

 

「まさか……、なあ……」


 薄暗くなったアパートで僕が途方に暮れていると、ガチャっとドアノブの回る音が響く。


「なんだ? 暗えじゃねえか。テレビつけてるんなら電気も点けろよ、そんなに電気代を気にしなくてもいいだろ」


 競輪から帰ってきた菊沢さんが上機嫌で部屋に入る。その手には酒の一升瓶とつまみの缶詰などが一杯抱えられていた。


「おいおいやっちゃったよ~。今日はさあ、競輪で勝っちゃったよ! なんていうのかなあ無欲の勝利っていうの? 選手も何も全然知らねえからデータを素直に分析出来たっていう感じ? やっぱ先入観っていうのは勝負事には良くないね。勝負事以外でもさ、何事にも先入観は良くないって今日は勉強になった!」

 

「そうですか……、良かったですね」


「なになに、何だよ滋彦、もっと喜べよ。お前の分も食い物を買って来てやったんだからさあ。しかし、この時代には缶ビールが無いんだ……、もう少し便利になってくれよな……」


 ガサガサと紙袋を開け、菊沢さんは缶詰やらお菓子やらを畳に広げていく。引き続いて競輪で勝ったレースの話が得意げに始まった。僕は競馬なら少しだけ理解できても競輪や競艇までいくと全然解らない、そんなことよりも山口モモエちゃんに出会ったことを言うべきかどうか散々に迷う。


「なんだ? お前なんか暗いぞ。悩み事でもあるのか? やっぱり今度一緒にトルコに行くか? いい娘がいるぞ」


「行きません! いえ……まあ暗く見えるのはちょっと風邪をひいたみたいで……」


 結局僕はウソをついて菊沢さんに言うのはやめることにした。何と言っても彼女は未来の大スター、菊沢さんに言ってヘンなことに巻き込まれても困る。さすがに菊沢さんに幼女趣味は無いと信じているけれど用心に越したことは無い。


「そうか風邪か、じゃあタマゴ酒でも作ってやろうか?」


「タマゴ酒って、マンガの様式美じゃないんですから余計に体調が悪くなりますよ。大丈夫です、寝たら治ります」


 その後しばらくは菊沢さんの今日の武勇伝が続き、そしてテレビを二人でボケっと見ている時だった。菊沢さんがコップの酒をコトリと置いて僕に話しかけてきた。


「なあ滋彦くん」


 菊沢さんが僕のことを「くん」付けで呼ぶ時は割と真面目な話をすることが多い。僕が少し姿勢を正して視線を向けると、案の定菊沢さんは真面目な顔で『福永勝己』の名刺を見ていた。


「なあ滋彦くん、明日……『木幡こわた』と『福永勝己』のことを調べに行こうと思う。行くのは俺だけで行く、一人の方が探りやすいし、お前はここに居たらいい」


「いいんですか? 菊沢さんひとりで。風邪のことを心配してくれてるんなら、寝たら治りますよ」


「いや、一人でいい。万が一にもややこしい話になったら一人のほうが逃げやすい。それに……、この『木幡』と『福永勝己』の関係は俺のことだからな」


 競馬で大はしゃぎしたり、上機嫌で飲み屋やトルコから帰って来たときの菊沢さんと違い、いまの菊沢さんには近づきにくいオーラが少し滲み出ていた。思い返せば最初に出会ったときの僕を探るような視線や態度なども、新聞記者として働いていた菊沢さんの名残りかもしれない。


 明日のことにしても自分一人で動いたほうが得策と判断した裏には、菊沢さんの大人の判断もあるのだろう。


「危険といえば危険なんだよ……」


 僕が何も言わずに黙っていると、菊沢さんがそうポツリと漏らす。


「やっぱり危険だと菊沢さんも思うんですね?」


「そうだな、多摩地区に行くことが危険。『木幡』に触れることが危険。それから、いろいろな事実を知ってしまうことが逆に危険かもしれない。でも手がかりはこれしかないからな、とにかく俺は行ってくる。明日お前はあんまり長時間の外出はするな、って言わなくてもお前がアパートを出るのは買い物くらいだったな。とにかく待っててくれ」


 それだけ言うとコップに残った酒を飲み干し、「俺は寝る」と切り上げて菊沢さんは隣の部屋へと消えていった。残された僕は後片付けをしながらさっきの言葉を思い返す。


「『これは俺のことだから』、『危険だから一人で行く』か……、足手まといに思われてるのか、そうじゃなくて僕を庇ってくれているのか、その両方だろうな」


 僕は一人でつぶやきながら、さっき山口モモエちゃんについて言いそびれたことを少し後悔し始めていた。



< 明けて昭和44年1月 クリームパンの少女の部 終わり >


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