第14話 12月22日 中山競馬場10レース 第13回有馬記念 その2
馬券売り場で散々に目立つ馬券購入をした僕たちは、雨上がりの横浜の路上を足早に歩いていた。僕が持っているカバンの中身は六百万円分、実に六千枚ものパンチング印刷された勝馬投票券。しかもその全てが第13回有馬記念の枠連「7-8」の馬券だった。
菊沢さんの知っている知識によると、この有馬記念は一着が7枠8番のリュウズキ、二着が8枠11番のニウオンワードで決まり30倍の払い戻しになるらしい。つまりこのカバンの中身が一気に一億八千万の現金に化けるかと思うと、おいそれとぞんざいに扱うことは出来なかった。
「滋彦くん、ひとまずあそこの喫茶店に入って休憩しよう」
場外馬券場を出て散々歩き回った結果、菊沢さんが指さしたのは関内駅前の小綺麗な喫茶店。さすがにここまで来ると競馬に群がるオッサン連中の人影も無く、店内は普通のお客が席を埋めていた。
「もう……、むやみに動いて一駅ぶんも歩いたじゃないですか」
「まあそう言うなよ、コーヒーでいいか?」
悪びれることもなく菊沢さんはウェイトレスを呼び、ホットコーヒー2つを注文する。ウェイトレスは大事そうにカバンを抱える僕の方をチラッと見て厨房に戻っていった。
目立つから抱えているカバンを横に置け、と菊沢さんに言われて渋々横に下ろしたけれど、目立ったのは六千枚も一度に馬券を発券させた菊沢さんじゃないのかと疑問に思う。
「いやあ、しかしさっきは焦ったな! 俺もすっかり忘れてたよ。なにしろ磁気カードになる前の馬券なんて買ったことが無かったからな、爺さん連中から話には聞いてたんだがあんなに発券されるもんだとは思わなかったよ、ハハハ……」
ドバドバと砂糖を入れたコーヒーを飲みながら菊沢さんが笑う。確かに考えてみるとこの人は僕より10歳年上だけれども、昭和時代の競馬をリアルに知ってる訳ではない。歴史上の知識と実際の経験とは雲泥の差がある、『百聞は一見に如かず』とはまさにこのことかもしれない。
「しかし菊沢さんもよく笑えますねえ。待っている間、僕は針のむしろでしたよ」
「俺だって針のむしろだったさ、だから『姐さん早くして』って言ってただろ。それよりちょっとカバンよこしてみろよ、確認するから」
僕がカバンを差し出すと、菊沢さんはゴソゴソと中身を確認する。
「こういうのってさあ、ドラマとか映画だと同じ日の違うレースを買ってたり、違う番号を買ってたりするもんだけど……、よし! 間違いないな。今日の有馬記念の『7-8』だ。おい、今夜は好きなもの食って帰っていいぞ。ちなみに俺は川崎に行ってから帰るからな」
「いい加減飽きませんか? その高いお風呂……」
「そんなもん飽きねえよ。それより払い戻しの換金の話だがな」
まだ当たった訳でもないのに、菊沢さんは真剣な顔つきで一億八千万の換金方法を語りだした。要約すれば一度に換金すると目立つので、払い戻し有効期間の60日をフルに活用して三~四回くらいに分け、更には競馬開催日ではない平日に換金しようというものだった。捕らぬ狸のナントヤラとはまさにこのことだ、菊沢さんを見ていると色々とことわざを思い出して仕方がない。
「まあ、僕たちは働いているわけじゃないですから、平日の払い戻しでも全然構いませんけど……、本当に当たるんですか? それ?」
頬杖をつきながらカバンを指差すと、菊沢さんはニヤリといやらしい笑いを見せる。そのニヤついた表情を見ていると、あの日に木切れを背中に当てられ拳銃と勘違いしてビビってしまった自分にトコトン腹がたった。
「当たるに決まってるだろ。さあ、もうそろそろいい時間だからな、テレビ中継が見られる場所に行こうぜ。そうだな……、さっきの飲み屋にテレビがあったから戻るか」
「ハァ……、あそこまで1kmくらいありますよね。まあどうせ京急に乗らなきゃ帰られないんで歩きますけど……」
♢ ♢ ♢
昼下がりの冬の街。関内から日の出町近くの飲み屋まで男二人で歩く姿は、間違いなくギャンブラー仲間にしか見えないだろう。先輩に連れられて歩く競馬初心者の後輩といったところか。
さきほどの飲み屋の暖簾をくぐると、案の定そこは競馬中継に群がるオッサンで埋まっていた。カウンター席に座った菊沢さんはまたもや景気づけにとビールを注文する。
――やっぱり今朝の雨で馬場は荒れてるな。
――馬場状態は『重』発表なんだけど、『不良』に近い『重』だな。さっきのレースでも内ラチ沿いは誰も走らなかったぐらいだ。
店内での客同士の会話を聞いていた菊沢さんの顔が曇り、何度か首を捻り出した。
「どうしたんですか? 何か気になるんですか?」
「あ? ああ……。確か俺の記憶では『重馬場』じゃなくて『不良馬場』だったんだが……」
「それって、なにか違うんですか?」
「うん、まあ、違うと言えば違う」
菊沢さんは僕の質問に少し嫌そうな顔を見せてテレビに視線を戻す。そのテレビ中継では最新のオッズをアナウンサーが読み上げていた。
『……枠連7-7、68.5倍、枠連7-8、24.2倍、枠連8-8、54.8倍……』
その放送を聞いた途端、僕と菊沢さんの視線がぶつかった。枠連7-8って、確か菊沢さんの話だと30倍はついていたはず……。それがいま聞いた限りでは24.2倍まで落ちている。
「ねえ菊沢さん……、いまの聞きました? これってもしかして……」
「ま、まあそうだな。俺たちが買った結果オッズが落ちた……のかもしれないな。まあこれは想像でしかないけどな……、他に大口購入があったのかもしれんし、それにいまテレビで読み上げているのは最終オッズじゃないからな。最終オッズだと30倍つくのかもしれんし、それにだな……」
メチャメチャ早口で自分自身を納得させるように語りだした菊沢さんだが、その目がユラユラと泳ぎだしているのを僕は見逃さなかった。
「菊沢さん。馬場状態の発表も『重』と『不良』で何だか違うし、オッズにしても変わってるんでしょ? そうだとしたらレースの結果だって……」
「う、うるさいなキミは! とにかくあと10分もすれば発走だ、大丈夫だ、問題ない!」
いったい何が問題ないのかわからないけれど、菊沢さんはビールをゴクッと飲み干してぷいっとテレビの方を向いてしまった。僕は自分が大事に大事に抱えているカバンの中身が、鼻紙にもならないただの紙切れになるような不吉な胸騒ぎを抑えられない。
発走が近づき店内のざわめきが大きくなるのに反比例するように、僕と菊沢さんは何も喋らなくなる。
そしていよいよスタートの時間、僕も菊沢さんも、店内のオッサン連中も食い入るようにテレビを睨みつけた。
♢ ♢ ♢
『昭和43年、暮れの中山競馬場、本日の第10レース。恒例となってまいりました年末のグランプリ第13回有馬記念競走、向正面から……、今スタートしました!』
一斉にゲートを出た馬が走り出す。
ほとんど競馬素人の僕に詳しいことはわからないけれど、馬場状態は本当に悪いようで馬が走るたびに泥が跳ね上がっている様子がテレビに映る。正面スタンド前を通過する映像では馬場コースの内側を通っている馬はほとんどおらず、芝状態のまだマシな馬場の中央付近を馬列は淡々と進んでいた。ふと隣を見ると、身内でも殺されたのかと思うような顔付きで菊沢さんがテレビを睨んでいる。
「菊沢さん……、どんな感じですか?」
「うるさいな! 黙って見てろ、大丈夫だ、問題ない」
ああ、これは絶対大丈夫じゃなさそうだと思いながらテレビへ視線を戻すと、馬の集団は向正面から第三コーナーへと差し掛かり次は最終第四コーナー、レースも正念場を迎えようとしていた。
『さあ第四コーナーを回って最後の直線、ほとんどの馬はコースの中央から外側! 先頭はニウオンワードか? その外を通ってリュウズキ、さらにはスピードシンボリ、一番人気のアサカオーは中団付近……』
「行け! リュウズキ! オラ! 走れつってんだろ!」
最後の第四コーナーでオッサンどもが一気に興奮状態におちいった飲み屋の店内、突如として菊沢さんが立ち上がって絶叫を始める。
『リュウズキが先頭に立ったか! ニウオンワードとスピードシンボリも一緒に連れて上がって来る。これは大接戦だ、これは大接戦!』
「行け!! ※☆$#+$%☆!!! バカ!!#”!’&%♢◯!!」
僕にはもう菊沢さんが何を叫んでいるのか聞き取れない。
『ゴールまであと100m、スピードシンボリが差すか、リュウズキも粘る、間を通ってニウオンワード! スピードシンボリ差したか、スピードシンボリ差したか、三頭一団となってゴールを通過しましたがこれは微妙な体勢です! スピードシンボリやや体勢有利か!? どうでしょう? 解説の大川さん』
『最後スピードシンボリがキッチリと差し切ってますね、さすが野平騎手だと思います』
『やはりそうですか、私の目にもスピードシンボリが体勢有利に見えましたが確定までわかりません。第13回有馬記念、確定までしばらくお待ち下さい』
――これ、野平のウマが差してるだろ……
――ああ、アタマくらい抜け出てるんじゃないか? スピードシンボリが勝ったな。
――やっぱなあ……、アサカオーは危ないと思ってたんだが。
各人がレースの感想を言い合いながらガヤガヤとした喧騒に戻った店内で、菊沢さんは手を握りしめ、カッと目を見開いたまま固まっていた。




