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第13話 12月22日 中山競馬場10レース 第13回有馬記念 その1

 昭和43年12月22日の日曜日、いよいよ第13回有馬記念の朝がやってきた。珍しくも昨夜は早く帰って来た菊沢さんが窓の外を見てニヤニヤと笑う。


「な、俺の言った通り雨が降ってるだろ。今日は朝のうちに雨が降って不良馬場になるんだよ、それで重馬場得意のリュウズキが勝つっていうことさ!」


「まあいいですけど、昨日言ってたように本当に菊沢さんは五百万円も賭けるんですか? 僕は絶対にそんなに賭けませんよ、百万円だけですからね!」


「なんだよ、本当に尻の穴の小せえやつだな。俺は本当は一千万円でも賭けたっていいんだぜ、絶対に勝つんだからさ。もっと賭けとけば良かったって、あとで悔やむなよ」


 菊沢さんが捨て台詞を吐いてトイレに消えたあと、僕は競馬新聞をもう一度眺めた。


 第13回の有馬記念、本命の◎印が多くついていたのは4枠4番のアサカオー、他に◎や対抗の◯印の多かった馬は2枠2番のスピードシンボリ、6枠6番モンタサンなどで、菊沢さんが勝つと言っている7枠8番のリュウズキは△や☓などの印しかついていない。前走の秋の天皇賞も9着に負けていてそれほど人気が無いのもわかる気がする。


 トイレから出てきた菊沢さんにいろいろと聞いても、このレースはリュウズキとニウオンワードで決まるんだから心配するな、の一点張りで肩を叩かれた。


「じゃあ行くぞ! お前本当に百万でいいのか? 考え直すなら今のうちだからな」


 玄関を出る段になっても「増やさなくていいのか?」と、証券会社の営業マンのように何回も聞いてくる菊沢さんが少し鬱陶しくなり、僕は多少乱暴にドアを閉めて施錠を確認した。

 何しろ払い戻しが30倍程度つくらしいから百万円賭けても三千万も返ってくる、今の僕にはそれでも十分すぎると思うのだけれど、どうやら菊沢さんは違うらしい。鼻歌を歌いながら階段を降りていく目の前の人が僕には金の亡者に見えてきた。


 横須賀中央から京急に乗り、横浜場外馬券場のある日の出町駅まで電車に揺られて約30分。車窓では雨が降り続いていたけれど、すこし雨脚が弱まっての小雨模様、菊沢さんの言っているように本当にお昼頃には雨は上がりそうだった。


 日の出町に着いたのは午前11時を少し過ぎていた。駅から場外馬券場に向かう道中には飲み屋が何軒もあり、昼前から飲んだくれのオッサンがたむろしている。あの人達は馬券を買う前なのか、それとも早々に負けたあとなのか……。とにかく百万単位の賭け金を持っているいまはお近づきになりたくない人々だった。


「おい、滋彦くん。景気づけに昼飯がてら一杯やっていくか? 前祝いだよ、前祝い!」


 僕の心配など関係ない菊沢さんは勝手に飲み屋の暖簾をくぐって中に入ってしまう。慌てて僕も続いたけれど菊沢さんはともかく、どうみても僕だけ飲み屋の中で浮いた存在になってしまった。


「菊沢さん、僕は天丼でも何でもいいですから早く食べて行きましょうよ」


「おお滋彦ちゃんは天丼か? それじゃあ俺はビールと焼き鳥、あとはレバニラ炒めでも食うかな……」


 出てきた天丼を一気に食べてしまった僕を尻目に、菊沢さんは悠長に焼き鳥でアルコール分を補給してビールのおかわりまで頼んでいた。僕と競馬の話をしても面白くないのか、隣に座ったオッサンと今日の有馬記念の話をし始める菊沢さん。


――だからオッサン、さっきの雨で不良馬場なんだからアサカオーは来ねえよ。リュウズキだよリュウズキ! それからニウオンワードが来るね。


――リュウズキ? 加賀武見かがたけみがリュウズキとアサカオーでアサカオーを選んで乗ってんだぞ、リュウズキは来ねえよ。それにリュウズキのヤネ(騎手)は森安だろ……、森安には稼がせてもらったけどアイツももう歳だからなあ。


 僕にはチンプンカンプンの話でわからないけれど、とにかく菊沢さんは無関係なオッサンにもリュウズキを勧めている。僕はこの無駄に高いコミュニケーション能力を羨ましく思う反面、ここで無用ないざこざを起こさないでくれと必死に願っていた。


「しょうがねえオッサンだなあ、せっかくいい情報教えてやったのに……。まあ頑張りなよ! よし行くぞ滋彦!」


 ビールを二本飲んでほろ酔いになった菊沢さんがようやく席を立つ。菊沢さんの相手をしてくれた隣のオッサンに軽く会釈をして店を出ると、いつの間にか雨は完全に上がっていて、場外馬券場に向かう人の波も増えていた。


「ねえ菊沢さん、良かったんですか、あのオッサンにあんなこと言っても。なにかこう、疑われたりしませんかねえ」


 あまりにも緊張感の無い飲み屋での態度に愚痴をこぼすと、ほろ酔いで上機嫌の菊沢さんは爪楊枝ですすりながら笑う。


「なにが? 小さいことを心配しなくても大丈夫だって。今日の当たり馬券の幸せをみんなに分け与えてやりたいだろ! 心を大きくもって行こうぜ、心を大きく!」


「僕が心配してるのは馬券の当たり外れだけじゃないんですけどねえ……」


「お前は本当に心配症だなあ、心配するなら当たり馬券の一億五千万を払い戻し期限までに何回に分けて払い戻しするのか、とか前向きに心配してくれよ」


「……はあ、そっちの心配ですか」


 菊沢さんのあまりの楽天家ぶりにため息をつきながら後を歩くと、道を挟んで両側に建つ横浜場外馬券場の建物が見えてくる。この頃はまだまだ競馬のイメージが暗かった時代で、場外馬券場の建物自体も薄暗くタバコの煙が充満し、何より出入りする人々から仄暗いオーラが漂っていた。



「おい、行くぞ!」


 建物の中に入りタバコの煙に閉口しながらキョロキョロと辺りを見回していると、菊沢さんに声をかけられて馬券売り場へと連れて行かれる。僕の知っている馬券は投票用紙をマークシートで塗りつぶして買うのだけれど、どこをどう見てもこの時代にはそんな近代的な設備は無い。タバコを吸うオッサンの群れが窓口に行列を作って並んでいるだけだ。



「菊沢さん。これ、どうやって馬券を買うんですか? 火事が起きそうなほど煙臭いんですけど」


「あれを見てみな。人が並んでる窓口の上に『1-8』とか『2-8』とかあるだろ、あれが枠連(枠番連勝)の番号だ。だから自分が買いたい番号の窓口に並んで買うってことだな。で、リュウズキが7枠でニウオンワードは8枠だから……、『7-8』はあっちだ」


 再び菊沢さんに子供のように腕を掴まれて、枠連『7-8』の窓口に連れて行かれた。3人のオッサンが馬券を買っていったあと、窓口は僕たちの順番になり菊沢さんがアクリルガラスにピッタリと張り付いて売り子のオバちゃんに声をかける。


「有馬記念の枠連『7-8』、俺が五百万円でコイツが百万。いい? 俺が五百万でコイツが百万、合計六百万円、わかった?」


 言うが早いか菊沢さんは持っていたカバンを開け、輪ゴムで縛っていた百万円の束5つを窓口の隙間に差し入れた。


「おい! お前も早く出せ……」


 急かされた僕も百万の束を差し出して隙間に滑り込ませる。合計六百万の札束を突き出されたオバちゃんは明らかに狼狽していた。


「ちょ、ちょっと待ってね。時間がかかるから」


 窓口のオバちゃんは部屋の奥に行き、時代がかった紙幣計算機に札束をセットして計算を開始。セットしてはお札を数える作業を繰り返し数分待たされた後、ようやく帰ってきたオバちゃんの額にはうっすらと汗が滲んでいた。


「たしかに六百万円ね、投票券を印刷するのにも時間がかかるから待ってちょうだい!」


 ガチャガチャとアナログチックに馬券を吐き出す発券機。間違いがないか確かめながら枚数を数えるオバちゃん。そして「お姐さん、早くしてよ」と貧乏ゆすりを始める菊沢さん。


 一枚の磁気カードで何十万円分もの投票情報が書き込まれてペロッと出てくる現代と違い、この時代の投票券は一枚千円が最高金額。それを六百万円分も出そうというのだから、合計六千枚ものパンチカードの馬券がガチャガチャと出てくることになる。

 百枚数えては輪ゴムで縛り、百枚数えては輪ゴムで縛り、という作業を60回も繰り返してようやく窓口のオバちゃんの仕事は終わった。お疲れ様という他に言葉が無い。


 僕たちの後ろに並んだオッサン連中も最初はイライラしていた様子だったけれど、吐き出される馬券の枚数に圧倒されて、最後の方は呆けたように口をあけて僕たちを遠まわしに眺めていた。


 僕と菊沢さんはひとまず六千枚の馬券を乱暴な手つきでカバンに仕舞い込み、逃げるように窓口を後にする。


「菊沢さん……、めっちゃ目立ちゃったじゃないですか!」


「ああ、まあ……、そこそこ目立ったな。これは払い戻しの時には十分気をつけなきゃならんな」


()()()()()()()()じゃないですよ! みんな口を開けて僕たちを見てたじゃないですか」


 六百万円分もの馬券が詰まったカバンを握りしめ、僕たちは場外馬券場の外へと飛び出した。


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