第11話 横須賀ストーリー その1
僕たちが横須賀に来てから10日が経った。つまり今日は昭和43年12月20日、曜日で言えば金曜日。
部屋の押入れには鍵付きの大きなスーツケース2つあって、ふたつまとめてチェーンで柱にグルグル巻きにされている。さらにはご丁寧に2つの南京錠でガッチリと繋ぎ留められていて、ちょっとやそっとじゃ外せない。
そのスーツケースの鍵も南京錠の鍵も僕と菊沢さんが別々に持っており、二人が揃わないと開けられない仕組みだ。スーツケースの中身は言わずもがなの三億円、2つに分けてそれぞれ一億五千万円づつが入っていた。
お互いの抜け駆けを防ぐという意味で二人で指紋を取り合い、写真屋で運転免許用にとウソをついて証明写真も撮って持ち合い、さらには南京錠2つだ。ここまでしたら僕は菊沢さんを裏切る気も起きなかったし、菊沢さんも裏切ることはないだろう。
僕はさっき買ってきたパンと牛乳で遅い朝食を食べながら、ついでに購入した新聞を読む。相も変わらず「三億円事件」の記事はデカデカと紙面を飾っていて『銀行の内部犯行説も……』などという憶測記事も載っている。まだ何とも言えないけれど、今のところはどうやら史実通りに事件は経過していて、多くの物証を残しながらも捜査が進展している様子は伝わって来なかった。
小さくため息混じりに新聞を畳み、残った牛乳を飲み終えた頃、昨夜も遅かった菊沢さんがようやく隣の部屋から起き出してきた。
「おう、滋彦。俺の朝飯どこ? ああ、これか……、しかし毎日アンパンだと飽きるな。今度はクリームパンにしてくれよ」
「だったら菊沢さんが自分で買いに行けばいいでしょう」
「そんなこと言って、お前さん一人だとこの部屋だって借りられてたとは思えないんだけどな、なにしろお子ちゃ……。ああ、これ言っちゃダメだったんだっけ?」
ゲラゲラと笑いながらアンパンの紙袋を開ける菊沢さんを、僕は苦々しく思いながらチラリと見た。確かに菊沢さんがいなければ、ここまで出来てこなかったことも多い。
♢ ♢ ♢
まずは横須賀に着いた翌朝、朝一番で菊沢さんは鍵のついた大きなスーツケース2つを買ってきて車内で現金を麻袋から積み替えた。
次に自動車の処分。燃料の少なくなっていた盗難車のスカイラインはかえって危険だと、横須賀市内の団地の外来者駐車場に乗り捨てて、以後はスーツケースと徒歩での移動となった。
そして問題のアパートの件。
菊沢さんは横須賀中央駅近くの不動産屋を物色し、「ここがいいな」と小さくて儲かってなさそうな不動産屋に入ろうと言い出した。
「こんな小汚い店じゃなくて、もっとマシな店がありましたよ」
「まあ見てな、それからさっき言った十万円の封筒を出せるようにしておけよ」
ガラガラと木の引き戸を開けて菊沢さんが店内に入り、僕は後に続く。店内には頭の薄い50代くらいの親父さんが何やら帳簿をつけていた。
「いらっしゃい、何かご用かな?」
帳簿から目を上げ、老眼鏡を外した親父さんが不景気そうな顔をこちらを向ける。
「忙しいところすまんね。実は私たちは部屋を探してるんだがね……」
おもむろにスーツ姿の菊沢さんは話を切り出した。
「内密な話で詳しい事情は話せないんだが、我々二人がしばらく暮らせる部屋が必要なんだ。期間は……、そうだなあ、半年になるか一年になるか。米軍関係というか政府関係というか、まあそんな仕事で部屋が必要なんだ」
何を言い出すのか……、と後ろで聞いていた僕さえ思ったのだから、店主の親父さんの不思議そうな顔も納得だ。
「はあ? おたくさん海自(海上自衛隊)の方ですかな?」
「いやいや自衛隊は関係ない。我々がやっているのは治安維持の方でね、来るべき70年安保の過激派対策で……。まあこれ以上は言えないけれど、反米・反政府団体はここ横須賀にもいるからね。とにかく我々の身分を明かすと我々の命も危ない、だから身分を明かせないし、部屋を借りたことを外部に漏らして欲しくないんだ」
「ほお、あんたがた公安か警備関係なのかい?」
菊沢さんの嘘八百に興味をひかれたのか、僕たちを見る店主の親父さんの目が変わった。
「ご想像におまかせするが、さっきもいった通り詳しい話はできないんだ。我々の事情を明かせない代償として敷金礼金、それから家賃も一年分は現金で前払いする、それから同じ役所仲間の税務署には悪いんだが……」
そう言って菊沢さんはニヤリと笑うと、領収書のいらない十万円を謝礼として裏金で用意する、と店主に申し出た。
「おい! 佐藤。なにをボヤッとしてる、社長さんに封筒をお渡ししろ」
僕は突然『佐藤』と呼びつけられて封筒を出すように命じられ、おずおずと懐から封筒を取り出した。
「まったくお前はそんな注意力でどうする! いや、社長さんお見苦しいところをお見せしました、新米はこれですから……。それでは中身をご確認下さい」
この年、つまり昭和四十三年の大卒初任給が大体三万円だったと記憶している。十万円の裏金というとその三ヶ月分以上の金額だ。さっきまで不景気そうな面だった親父さんの顔が、見る見るうちに商売人の顔つきになった。
「いやあ、若い人に仕事を教えるのも大変でしょう! ご予算はどの程度で? いい部屋がありますよ」
「ええ、それなんですがね……。職務上派手に動くわけにはいかないのですよ、だからできるだけ地味な目立たない場所で、欲を言えば不人気で居住者が少なくて空き部屋の多いところの方が隠密行動を取りやすいのです。そういう不人気物件が埋まるほうが社長さんも儲かるでしょう? どうです、すぐに入れるような物件はありますか?」
不人気部屋で一年分の部屋代を現金で前払い、しかも裏金十万円つきともなると親父さんは手もみをしながら管理台帳を取り出した。
「お客さん、ここなんかはピッタリの物件でしてね~」
親父さんの説明に、ウンウンと鷹揚にうなづく菊沢さん。僕は目の前で繰り広げられる茶番劇にしばし言葉を失った。
♢ ♢ ♢
「まあ菊沢さんのイカサマというか、騙しの才能には参りましたけどね。だいたい公安があんな風に部屋を借りるなんて不自然だと思わなかったんですかねえ、あの親父さん。身分証明を何も出さずに借りられちゃいましたけど、あとで持ち主の大家さんに怒られないんでしょうか」
アンパンを食べながら美味そうに牛乳を飲む菊沢さんが僕を見てまたゲラゲラ笑う。
「俺は公安警察だなんて一言も言ってないし、説得するより相手が思い込んでくれたほうが話が早いのさ。それに儲かっている会社組織の不動産屋なら裏金の処理にも不自由するだろうけど、儲かってなさそうな個人商店の親父さんだったら裏金十万は魅力的だろうしな。事前にキミを叱ると教えていなかったから叱った時の反応も自然だっただろ、大家だって不人気物件の空き部屋より家賃が入るほうが良いに決まってるさ、なあ佐藤くん」
まったく悪びれずにそう言う菊沢さんに少々不愉快な気持ちが蘇ってきたものの、これが大学生の自分とバツイチ経験者の差かと思うと納得せざるを得なかった。
「個人情報にしても何にしても色々とまだ緩い時代だよな、この時代は。さてと、腹も満たしたし俺は風呂に行ってくるかな。お前も来るか? 風呂に」
「菊沢さん、またですか……。ここのところ二日に一回じゃないですか?」
「いいだろう、三億円もあるんだから」
「菊沢さんの分は一億五千万です」
菊沢さんの行く風呂とは僕たちの時代でいうところのソープランド、つまりこの時代に出来たばかりというトルコ風呂。わざわざ川崎の堀之内まで電車で行ってクソ高い風呂に入って飲み屋で飲んで帰って来る。クソ高い風呂に行かない日は横浜のキャバレーで飲んで帰って来る。どっちにしても毎日飲んで帰って来るのが菊沢さんのここ数日だった。
「お前なあ、毎日三万円使ったって一億五千万使おうと思ったら15年近く掛かるんだぞ。そのうち飽きるんだから今は気持ちよく使わせろよ」
「あのねえ菊沢さん、豪遊し続けたら15年で無くなっちゃうんでしょ。そのうちもっと遊びたくなるんじゃないですか?」
いまのところは毎日三万円で済んでいる。ところがこれが十万単位になるとものの数年で無くなる計算。三億円を盗んだ僕が言うのもなんだけれど、菊沢さんにももう少し堅実に考えてほしいものだ。
「滋彦……、カネなんてなあ、元手があれば増やせるんだよ。だから少々使ったって大丈夫なんだよ」
「増やすって、どうやって増やすんですか?」
「とりあえず確実なのは競馬だな」
「はあ? 競馬が確実?」
競馬といえば今も昔もギャンブルだ、確実性などというものから一番縁遠い存在のはず。それが確実にカネを増やせるとはどういうことだろう。
「明後日の12月22日は今年の有馬記念。勝つのはリュウヅキ、二着はニウオンワード。枠連の払い戻しが確か30倍だったかな、これは間違いない、俺が知っている」
菊沢さんはどうだと言わんばかりに胸をそらし、自信満々に僕に語った。




