取引
アダムは何を言っているのだろう?
一瞬聞き間違いではないかと耳を疑ったが、それが聞き間違いでない事は、彼の真剣な様子を見れば分かる。
なぜそんな事を言うのか、どんな意味があるのか、私には全く理解出来なかった。
「‥アダム、貴方‥何を言っているの?もしかして冗談を言って、私を驚かせようとしているの?」
「いいや、驚くだろうとは思ったけど、冗談でこんな事は言わないよ。でも理由を説明しなければ、なぜこんな事を言ったのかは分からないだろうね」
「ええ。だって私の知りたいのは、貴方の考えた方法ですもの。どうしたって貴方との婚約という話には結び付かないわ。ましてや婚約破棄されて良くない噂のある私と、普通なら婚約しようとは思わないわよ?」
「まあ聞いてくれナターリア、さっき君が言った方法は、実は私も以前から考えていた事なんだ。だから誰かが始める前に、先に手を打つべきだと思ってね、半年程前から実行に移していたんだよ。とは言ってもまだ5つ程の商会しか、同意を得られていないけどね。彼等の商会はラーム商会の傘下という形で、それぞれに部門を分けて運営しているんだ」
その言葉を聞いて私は更に驚いた。
いや、驚いたというより、衝撃を受けたと言うべきだろうか。
私の考え出した方法なんて、アダムはとうに実行済みで、二歩も三歩も先に進んでいたのだから。
思わず小さな溜息が漏れる。
でもそれは呆れたり悩んだりした時の物とは違う、はっきりと差を付けられた事への、諦めによるものだった。
「何度も言うけど、やはり貴方にはさすがという言葉しか出て来ないわ。実際にやっている経験があるから、不可能だと言い切ったのね」
「うん、まあ、やり始めたはいいが、これにはかなり苦戦しているよ。纏めるのが大変でね、小さなトラブルが重なると、私一人では対応しきれなくなる。だからもう一人、私に代わって対応してくれる人を探していたんだが、さっきの話を聞いて、君をそのもう一人に育てようと思ったんだ。だけど君は伯爵令嬢で、人に雇われて働くのは、この国の階級制度の常識とは異なる。それに仕事を覚えて貰う為には、私と常に行動を共にして貰わなければならない。もしこれらの問題を無視して、君を働かせたとしたら、私の商会や君の家が何と言われるのかは分かるね?冷静になって考えてご覧、君は一つの事に集中すると、周りが見えなくなるからね」
そこまで言われてやっと気付く。
少し考えれば分かりそうな事に、気付いていなかったという事に。
この国で貴族の女性が働くという考え方はない。
稀に夫に先立たれ未亡人となった貴婦人が、事業を引き継ぐという事はあるが、それだって直接経営する訳ではなく、管理する者を雇って形ばかりの経営者に収まるのが常だ。
そんな貴族の常識を無視して働き、その上アダムと行動を共にするとなると、間違いなく私は変人でふしだらな女だとレッテルを貼られ、ある事ない事言いふらされてしまうだろう。
例えば、婚約破棄をされたのは、労働者の真似事をする変人だったからだとか、まともな結婚が望めないから、アダムの愛人の座を狙っているのだとか‥
もしかしたらもっと酷い事を言われるかもしれない。
それは我が家の評判や、アダムの事業にも影響を及ぼす。
自分なら何を言われても我慢出来ると思っていたが、家やアダムの事業に影響が出る事にまでは、考えが及ばなかった。
アダムの言う通り、一つの事に集中すると周りが見えなくなるのは、私の悪い癖だ。
だからなのかとやっと気付いた。
婚約者になるという言葉には、そういう意味があったのだ。
「アダム、ごめんなさい、やっと理解出来たわ。貴方は私の願いを、叶えてくれようとしたのね。私が貴方の婚約者という立場になれば、常に側にいても何も言われないし、働いているかどうかは、本人達にしか分からないものね。私の家や貴方の事業についても、考えた上で出した結論だったのでしょう?でも、この方法は駄目だわ。貴方が損をするだけだもの」
「ナターリア、話は最後まで聞くものだ。私は君に嫌な思いをさせると言った筈だよ。それは私が損をするという事ではないという意味だ。なぜなら君に婚約者となって貰えば、私の為になるのだからね」
「為になる‥ですって?いいえ、そんな事がある筈ないわ。まず私に仕事を一から教えるよりも、優秀な人材を雇った方が早いし、婚約などしてしまったら、貴方は相応しいお相手を探せなくなるもの。貴方ならいくらだって相応しいお相手が選べるというのに、不器量で婚約破棄をされた私の様な外れの令嬢の為に、貴方の道が阻まれてはならないのよ」
「‥‥君の悪い癖はもう一つある。思い込みが激しい所だ。それも、全部悪い方向へね。いいかいナターリア、もう一度言うが話は最後まで聞くものだよ。私の為と言った訳を聞いてから、判断しておくれ」
訳を聞こうがアダムにとって、不利な事には変わりがないと思う。
仮にアダムと婚約などという話になったら、母は喜び父も反対しないだろう。
婚約者の条件をこれ以上ないくらい満たしているのだから。
でもそれは私側の話であって、アダム側にしてみればもっといい条件の令嬢を選べる筈だし、私との友情の為に、わざわざ貧乏くじを引く必要はないのだ。
どう考えてもアダムの為になるとは思えない。
そんな私の考えをよそに、アダムは話を続けた。
「君が心配している私の相手だが、当分の間そんな相手を探すつもりはないんだ。でも事業を始めてから気付いたのだが、結婚していたり特定の相手がいた方が、有利に交渉を進められるんだよ。かといって誰かに特定の相手を演じて貰う訳にはいかないし、仮に頼んだとして、勘違いをされても困る。だからどうしたものかと考えていた所に、君から働きたいという申し出があった。それで閃いたんだ。君なら勘違いする事もないし、仕事上のパートナーとしても役立ってくれるとね。それにしつこい令嬢達からの縁談避けにもなるし、君に婚約者を演じて貰えば、全てが解決すると思った。ただ、縁談避けの為にも、君との仲を円満だとアピールする必要がある。だから必要以上にスキンシップを取らなければならない。もう一つしつこい令嬢達からの嫌がらせみたいな物もあるかもしれない。そこが君に、嫌な思いをさせるかもしれないと言った部分なんだよ。その代わりに、私は全力でヘルベルトを潰して、君の望む事を手伝うつもりだ。これが私の為になると言った理由だよ。私に恩を返したいと言った君の気持ちにつけ込む形になってしまうが、私の婚約者になる事を考えて貰えないだろうか?」
訳という物を聞いた上で、なるほどという気持ちと、やはり私にはまともな縁談が舞い込む筈がないのだという落胆の気持ちが湧き上がる。
自分でも分かっていた筈ではないか、こんな私に求婚する人などいないのだと。
自分から否定しておいて、どこか期待していた一面もあってか、その事が急に恥ずかしくなる。
私は何を舞い上がっていたのだろう?
アダムが婚約を口した理由は、私に最も相応しい物ではないか。
ここ最近考えて出した結論は、どうせ今後も良縁に恵まれないのだから、一生独身で家を守り、ゆくゆくは優秀な男の子を養子に迎えて、我が家の後を継がせればいいという事。
それが一時的に婚約者を演じたとて、家を守る事には変わりがない。
むしろ確実に家を守れるのだから、却ってありがたいと思うべきだろう。
それならば断る理由はない。
「分かったわ‥。これは取引という事なのね。貴方の婚約者を演じましょう。嫌がらせには慣れているし、スキンシップくらいどうという事はないもの。それに貴方の実力は知っているから、きっと私の目的を叶えてくれるでしょうね。だから私も貴方の望む通り、決して貴方に友人以上の感情を抱きません。そして貴方に将来を共にしたいと思える相手が現れた時には、すぐに婚約を解消する事を約束します」
はっきりとそう口にして、私はアダムに返事を伝えた。
アダムは溜息にも似た吐息を吐いて微笑んだが、どういう訳かその微笑みが悲しげに見えて、よく分からない力に胸が締め付けられる様な感覚を覚えた。
読んで頂いてありがとうございます。