変身
「お嬢様、目を開けて下さい。支度が整いましたよ」
ハンナの呼びかけにハッとした私は、目の前の鏡に映った女性の姿を見て驚き、大きく目を見開いた。
いつのまにかウトウトしていたらしく、化粧をされた記憶がない。
鏡に映った女性の口元にあるホクロや、私と同じ動きをする事から、この女性は間違いなく自分らしい。
結い上げて縦に巻かれた髪を額の両サイドに垂らし、頭の上には沢山の花が飾り付けてある。
綺麗に引かれたアイラインがパッチリとした目を演出し、ほんのり色付く頬紅は可愛らしい印象を与えている。
「ハンナ‥どんな魔法を使ったの?」
「私はほんの少し手助けをしただけです。どこの貴婦人でもやっている事を、お嬢様にしたに過ぎません。ですから言ったではありませんか、お嬢様は磨けば光る素材なんですって」
「それにしても‥まるで別人だわ‥」
鏡に映る自分の姿がまだ信じられなくて、思わず正直な感想が口から漏れる。
「これが本当のお嬢様なんですよ。それに、奥様は当分の間お嬢様を連れ出すおつもりですので、これからは毎日化粧をさせて頂きます」
そんな話になっているのかと、溜息を一つ吐き出したが、それを受け入れる以外の選択肢がない事を知っている。
「なんだか慣れないわね。でもお母様に従った方が良さそうだわ。今となってはこの家で、お母様に逆らえる人なんて誰もいないのだもの」
「あの方は誰の言う事も聞きませんでしたからね。さあさ、奥様がお待ちですよ、早く行きましょう!」
ハンナと一緒に自室を出て、サロンで待つ母の元へ行く。
母は大層喜んで、嬉々として私を連れ出した。
いつの間にか外は薄暗く、うたた寝をしている間にかなりの時間が経った事を知る。
こんな時間に一体何処へ向かうのだろうか?
「お母様、行き先を教えて頂けませんか?」
「あら、そういえば伝えていなかったわね。ヘンドリクセン伯爵邸よ」
「ヘンドリクセン伯爵邸‥この様な夜分に訪問するのですか?」
「夜に行うから夜会と言うのです。それぐらいは気付きなさいな」
「夜会!?どうして私が‥」
「貴女のお相手を探す為に決まっているでしょう?ナターリア私はね、腹を立てているのですよ。エリスと貴女の元婚約者に。大体私は最初から、あの不誠実な男を気に入っていませんでした」
「それは‥なんとなく気付いていました‥。でも、それと私のお相手探しが、どう関係しているのですか?」
「見返してやりたいからに決まっているではないですか!あんな男よりもっと素敵な殿方を捕まえて、あの二人を見返してやるのです!いいですかナターリア、あんな不誠実な男のせいで、貴女が世捨て人の様な生活を送る必要はないのですよ。あの男が卒業と同時に婚約話を進めたせいで、貴女の社交デビューは婚約発表の場となってしまい、貴女も婚約しているのだから必要ないと言って、社交の場へ足を運ぼうとはしませんでした。それがどんなに歯痒く思ったか、貴女は分かっていないのです。だからエリスが社交の場で大きな顔をして、つけ上がるきっかけになったのですよ。本当にエリスのあの性質は手に負えません。血は争えないとはこの事を言うのですね」
途中までの意味は分かったが、最後の言葉に違和感を感じて、私はすかさず母に聞き返した。
「血‥?それはどういう意味でしょう?エリスは顔立ちも性格も、あまり家族には似ていないと思うのですが?」
母は一瞬狼狽えたが「言葉のあやです」と言ってすぐに別の話に切り替えた。
それが妙に気になりはしたが、今の母にこれ以上余計な事を言ってはいけない事くらいは心得ている。
なにより着飾った私と出かける事を、これ程喜んでくれている母の、機嫌を損ねる気にはなれない。
ヘンドリクセン伯爵邸は、我が家からさほど遠い場所になく、家を出てから一時間程で到着した。
まだ夜会は始まったばかりの様で、私達と同じく到着したての馬車が何台も停まっている。
慣れない私は母の後ろに着いて、主催者であるヘンドリクセン伯爵夫人へ挨拶に向かった。
夫人と母は以前から仲が良く、お茶会だなんだと頻繁に行き来をしている間柄だ。
当然話も弾む様で、挨拶だけのつもりが長い世間話に発展して、とてもじゃないが付き合いきれないと感じた私は、一人で飲み物を取りに向かった。
慣れない場所の上、勝手の分からない私は、給仕係の運ぶ飲み物を貰おうと、先に手を伸ばした中年紳士の後ろへ並んだ。
一人で飲み物を取りに行く淑女というのは珍しいらしく、やけに人々の視線を感じる。
思わず紳士の後ろで背中を丸めて小さくなると、紳士は自分の飲み物を取る前に、私に声をかけて来た。
「貴女の分も取りましょう。どんな物をお好みですか?」
「お酒はあまり強くないので、軽い物が良いのですが‥」
「それなら林檎酒が良いでしょう。軽くて飲み易く口当たりもいいので、ご婦人方にも人気がありますよ」
「では林檎酒を頂きます。お気遣いありがとうございます」
「いいえ、紳士たるもの、ご婦人を優先するのは当然の事です。ところで初めてお会い致しますが、どちらのご令嬢ですかな?」
「シュミット伯爵家の長女、ナターリアと申します」
「ほう?貴女があの幻のご令嬢でしたか。いや、これは失礼、聡明なご令嬢だとは聞いておりましたが、こういった社交の場には出ない事から、幻のご令嬢と呼ばれているのですよ貴女は。それがまさかこの様に可憐なお嬢さんだったとは、偶然とはいえお目にかかれて光栄です。今日はどなたとご一緒ですか?」
「‥母と一緒に参りました。今ヘンドリクセン伯爵夫人と話しておりますが‥」
「ああ、あちらにいらっしゃる様ですね。では私も挨拶をして参ります。ナターリア嬢、後で私の息子を紹介させて下さい」
「は、はい‥」
紳士は人懐っこい笑顔を浮かべて林檎酒を渡すと、母のいる方へ消えて行った。
会場はさっきより人も増えて来て、その分なんとなく居心地の悪さを感じる。
社交を避けて来た私には、親しい友人も当然いなくて、なるべく目立たない場所へ行こうと、壁際の方へ移動し始めた。
すると急に入口の方が騒がしくなり、若いご婦人方が皆そちらの方へ向かって行く。
何事だろうと目を凝らすと、いきなり一人の男性が目の前に立ちはだかった。
「ナターリア嬢と耳にして、まさかと思い見てみれば‥これはまた、随分と上手く化けたものだ」
まだ夜会は始まってからそれほど経っていないというのに、かなり出来上がった様子のこの男性は、酒臭い息を吐きながら不躾なセリフを私に投げかけて来る。
「‥どなたか存じませんが、その様な言い方は失礼ではありませんか?初対面の方から、その様な事を言われる覚えはありませんが?」
さすがにムッとしたので言い返すと、男性はクックッと嫌な笑い方をした。
「初対面ではないんでね。幾度かそちらのお茶会へ足を運んで、貴女とも挨拶を交わした筈だが。ああ、こう言えば分かりますか?あのお茶会はエリスが開催した物だったと」
そう言われて記憶を辿る。
交遊関係の広いエリスは、何度かお茶会を開いては幾人かの男性を呼んでいた。
その際嫌がる私を無理矢理引っ張り出しては、出席者に挨拶をさせたのだ。
地味な私と華やかなエリスという、対照的な姉妹を見せ付ける為に。
私にとっては嫌な記憶で、当然挨拶を交わした相手など覚えていない訳だが、出席者の男性達がどの様な傾向にあったのかは覚えている。
彼等はエリスの熱心な信奉者達だったのだ。
私は嫌な予感を感じて、なんとかこの男性から逃れられないものかと、頭をフルに回転させたが特にいい案は浮かばなかった。
読んで頂いてありがとうございます。