調査
エリスとヘルベルトが旅立ち、そろそろ半月が経とうとしている。
あれから私は、父の仕事を本格的に学び、一日の内ほぼ全ての時間を、勉強に当てていた。
勉強する事は決して苦ではなく、むしろ余計な事を考えなくて済むのはとてもありがたい。
なにより学んだ事を活かす場所があるのだ。
身に付けた知識は、決して裏切らないのだから。
そして今日は不在の父の代わりに、書斎で父から頼まれた書類の整理をしている。
今はまだ雑用ばかりだけれど、いつか必ず父と同じ様に、仕事の出来る自分になるつもりだ。
ただ、やはりヘルベルトが任されたシュミット商会については、気になってしまう。
内心ではヘルベルトが父以上の利益を出せる筈がないと思ってはいるものの、商会を事実上管理しているのはあのルーカスなのだから、油断は出来ない。
ルーカスは一般階級出身ではあるが、以前働いていた別の商会から、その非凡な才能を父に見込まれ、引き抜かれた人物だ。
以前は父の片腕として、我が家でも十分に能力を発揮していた。
そして私の家庭教師でもある。
一時期エリスも彼に教わっていたが、彼は中々にスパルタで、甘やかされる事に慣れたエリスでは、到底耐えられる筈がなかった。
とにかく、そんなルーカスが管理する商会なのだから、誰が行こうが問題ないのではないかと思い帳簿を調べてみると、ここ一年余りは業績も低迷して伸び悩んでいる事が分かった。
成る程‥あの様な裏切りをしたヘルベルトに、父にしてはやけに寛大な処分を下したと思ったら、こういう理由があったのね。
あのルーカスをもってしても出来ない事が、ヘルベルトに出来るとは思えないもの。
でも一体原因はどこにあるのかしら?
ルーカスならとうに分かっている筈なのだろうけど、手を打つ事が出来ない理由があるのでしょうね。
それが分かればいいのだけど‥。
私はふと思い立って、他の商会についても調べ始めた。
ここ一年でウチの商会が伸び悩んだ分、他が業績を上げている可能性があるからだ。
元々あった名のある商会を片っ端から調べ始める。
けれどどこも前年とはさほど差がなくて、皆一様に伸び悩んでいる事が分かった。
では、新規参入の商会ではどうだろう?
父の元にある資料をパラパラと捲り、ここ一年の他社との比較表を入念に調べ上げた。
そこで目に飛び込んで来たのは、見慣れない商会の名前。
ラーム商会。
ちょうど業績が伸び悩み始めた頃に、新しく立ち上げられた商会の様だ。
ラーム商会?
これは‥調べてみる価値がありそうだわ。
更に詳しく調べようと資料を探し始めたら、勢いよくドアを開けて、母が書斎に飛び込んで来た。
「お母様、どうなさったの?」
「ナターリア‥私はもう、我慢出来ません!若い娘がこの様な埃っぽい所で、まるで世捨て人の様ではないですか!」
「世捨て人って‥そんなつもりは‥」
「いいえ!貴女ときたら、寝る間も惜しんで机に向かってばかりではないですか!そんな事を繰り返していたら、いつか倒れてしまいます。私はそんな娘の姿を見たくはありません!さあ、ここを出て支度をなさい。私と一緒に出かけますよ!ハンナ、ナターリアに支度をさせて!」
母の呼び声に駆け付けたハンナは、心得ましたとばかりに、私を自室へ連れて行く。
私もそれに逆らう事なく、母の言う事に従った。
母は普段大人しく口数の少ない人だが、時々我慢の限界を迎えると、決壊したダムの様に溜まっていた物を一気に吐き出す。
こういう時は逆らったら逆効果で、父ですら逆らう事は出来ないのだ。
自室には母が新しく仕立てさせたドレスが用意されていて、一度私の部屋を訪れたが、やはりいつも通り父の書斎にいたから、我慢の限界を迎えたのだという事を知る。
婚約者を奪われて、家から一歩も出ずに父の書斎で過ごし、それ以外では睡眠時間を削ってまで、机に向かい続ける娘。
母から見たら歯痒いばかりで、さぞや心配した事だろう。
コルセットを着用し、母の用意したドレスに袖を通して、鏡の前に立ってみる。
私なら絶対に選ばないバッスルスタイルのドレスで、後ろ側には鮮やかなブルーのたっぷりのヒダに、細かいプリーツが重ねられた長めの裾、前側にはサイドに分かれた布の下から、二段にレースが縫い付けられ、裾には細かい花の模様の飾りが付いている。
大きく開いた背中に、V字カットの襟、肘までの長さに幾重にも重ねられたレースの袖は、地味な私とは対照的な、とても華やかなで肉感的なドレスだ。
「こんなの‥似合わなすぎるわ。完全にドレスが浮いているじゃない‥」
「お嬢様、以前から思っておりましたが、お嬢様は自己評価が低すぎるのです。奥様の選んだこのドレスは、お嬢様のスタイルの良さと、髪や瞳の色にぴったり合って、正にお嬢様の為のドレスと言ってもいいでしょう。せっかく綺麗なハチミツ色の髪と、澄んだ青色の瞳をお持ちなんですから、普段からもっとそれを活かすべきだと思っていました。お嬢様は地味な服装を好まれ、化粧も最低限しかしませんし、賑やかな場所へ出かける事もありませんが、私はそれが歯痒くて」
「不器量な私が着飾っても無駄ですもの。無駄な努力は身を結ばないでしょう?」
「何を仰っているんですか、お嬢様は磨けば光る素材なんですよ!?あの方だってそれが分かっていたから、いつもお嬢様を貶める言葉を吐いて牽制していたんです!あんな言葉を間に受けて、お嬢様はせっかくの素材を、無駄に埋もれさせて来たんですよ」
「あの方って‥誰の事を言っているの?」
「お嬢様が縁を切られた方の事です!とにかく私に任せて下さい。誰よりも美しく仕上げてみせますから」
ハンナの言う事には同意出来ないけれど、私を思って言ってくれる言葉に反論する気は起きなくて、私はハンナに全てを任せてドレッサーの前に腰を下ろした。
「不器量なお姉様」
繰り返し言われ続けて来たこの言葉は、私の奥深くにトゲの様に刺さって、少しばかりの力では抜く事が出来ないのだ。
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