裏切り
「ごめんなさい、ごめんなさいお姉様!」
涙に濡れた瞳を潤ませ、私の足元に縋りながら、美しい妹はハンカチで抑えた口の端を、少しだけ上げていた。
ああ、まただわ‥
私はズキズキとした胸の痛みを感じながら、震える体を一歩後ずさり、私を見上げる妹を静かに見下ろす。
「すまないナターリア‥こんな事になってしまって‥。でも、もう自分を偽る事は出来ないんだ。僕は君ではなく、エリスを愛してしまった‥」
そう言いながら妹を抱き起すのは、私の婚約者であるヘルベルトだ。
「いいえヘルベルト、私が悪いの。私が貴方を愛してしまったから!」
「エリス!」
2人で抱き合い、三文芝居の様な婚約者と妹のラブシーンを見せられた私は、声を発する事も出来ずに、その場にただ立ち尽くした。
側で見ていた両親は、私を哀れに思ってか、母は私の手を握り、父は婚約者に向かって問い詰めた。
「ヘルベルト君、君は自分の立場を分かっていて、この様な告白をしているのか?」
「‥分かって‥います。でもナターリアでなく、エリスを愛してしまったのです!どのみちこのシュミット伯爵家には、婿養子として入る予定でした。ですから相手がエリスに変わっても、問題ないのではないでしょうか?」
父は深い溜息を吐きながら、やれやれと呟いて首を左右に振った。
「やはり分かっていなかった様だな。シュミット伯爵家を継げるのは、ナターリアとその夫だけだ。つまり君は我が伯爵家の後継者としての権利を、自ら放棄したのだよ」
「そんな!なぜナターリアでなければならないのです!?エリスだって同じ伯爵令嬢ではないですか!?」
父はもう一度深い溜息を吐くと、相手を射抜く様な鋭い眼差しで、婚約者であったヘルベルトを睨んだ。
「君はかなり勘違いをしている様だね。君は学生時代に、一つでもナターリアに勝てた教科があるのか?」
「い、いえ‥」
「エリスについても同じ事。同じ娘でも、エリスは美容や享楽に耽ってばかりで、私やナターリアから何一つ学ぼうとはしなかったのだからね。末っ子だからと甘やかしては来たが、統治者として間違った判断は下さないつもりだよ。私が言っている意味は分かるね?君がエリスと結婚したいと言うなら、勝手にすればいい。だが、シュミット伯爵家はナターリアの物だ」
「そ、そんな‥!」
ハッキリと父に拒絶されたヘルベルトは、真っ青な顔で呆然としている。
するとさっきまで弱々しく泣いていた妹が、急に態度を変えて、強い口調で父に訴えた。
「どうしてお父様!?どうしてお姉様にだけ譲るなんて言うの?私だってお父様の娘だわ!私には何も与えてくれないと言うの?」
ハラハラと涙を零しながら、キッと父を睨み付ける妹に、父は呆れた様な顔をして額を抑えた。
「本当にお前は分かっていないな。お前は姉から婚約者を奪ったのだぞ。その上まだ何かを欲しいと言うのか?」
「だって、お父様はまるで、私がお姉様に劣っている様な言い方をするんですもの!私だってやれば出来るわ!」
「ほう?そこまで言うなら考えてやらん事もない。お前とヘルベルト君に一度だけチャンスを与えてやろう」
それを聞いたヘルベルトは、気を取り直して父に問いかけた。
「チャンスですか!?それは一体どの様な事なのでしょうか?」
鋭い眼差しを変えずに、父はその問いに答えた。
「今から1年間、王都にあるシュミット商会を任せよう。そこで今以上の利益を出す事が出来たのならば、私も考えを変えるかもしれん。但し、私からの支援は、一切受けられないのが条件だが。それでもやってみるかね?」
「はい!もちろんです!必ず2人で成功させてみせます!」
「ならば今すぐここを発つ準備をしたまえ。商会には手紙を送っておく」
「はい!それでは荷物を纏めて参ります。エリス、迎えに来るから君も準備をしておいておくれ。君と2人ならきっと上手くいく。僕を信じて着いてきてくれるかい?」
妹は父に向けた顔とは違った、弱々しい女の顔でヘルベルトの手を握って頷いた。
それをうっとりとした顔で見つめるヘルベルト。
私には一度も見せた事のない、愛する者を見つめる顔を見て、冷静になってきた頭の中で、妙に辛辣な言葉が浮かぶ。
頭の中がお花畑とは、こういう事を言うのだわ。
ふと視線を感じてその方向を見れば、勝ち誇った顔の妹が視線の先にいる。
その顔は何度も見てきた、見覚えのある妹の顔。
沸々と湧き上がる怒りを抑えて、私は無言で自室に戻った。
とにかく1人になりたい。
悔しさと情けなさでぐちゃぐちゃになった私の顔を、絶対に妹だけには見せたくなかったから。
妹は昔から私の物を欲しがった。
両親が同じ物を買い与えると、わざわざそれを壊してまで、私の物を奪うのだ。
そして必ず同じ事を言う。
「お姉様は姉なんだから、妹に譲るのが当然でしょ?お姉様はその為に存在しているんですもの。美しい私と違って不器量なお姉様は、そのくらいしか役に立たないんだから」
呆れた自論を本気でそう信じて疑わない妹には、どんなに言って聞かせても聞き入れる事はしなかった。
でも、まさか私の婚約者まで奪うだなんて‥!
ヘルベルトと出会ったのは、高等学院に入学した時だ。
この国では女性が後を継ぐ事を許されていない。
だから長女である私は、幼い頃より婿養子を迎える事を義務付けられていた。
昔から勉強だけは誰にも負けなかった私は、高等学院でも優秀な成績を収め、将来夫となる人の力になれる様、毎日必死に努力していた。
そんな私が唯一敵わなかったのは、ミュラー子爵家の次男、アダム・ミュラーだ。
彼は何をやらせても器用にこなし、どんなに私が頑張っても、涼しい顔で首席を維持して、結局卒業まで一度も勝つ事が出来なかった相手だ。
そして彼は非常に魅力的で、彼目当ての女学生がわざわざ他校から校門前で待ち伏せるほど、彼の人気は高かった。
しかし私にとってはライバル以外の何者でもなく、事あるごとに反発してきたのだが、誰もがアダムを推す中で、ヘルベルトだけはいつも私を応援してくれたのだ。
そんな彼の優しさに惹かれて、彼から婚約の申し込みがあった時は、どれ程嬉しく思った事か。
今となってはあの優しさも、全ては打算的な考えの上に作られた物だと、さっきの彼の言葉から思い知る。
ヘルベルトは特別成績がいい訳でもなく、優れた容姿を持つ訳でもない、どこにでもいる普通の男性だ。
それに男爵家の次男であった事から、婿養子として迎えるには最適な相手でもあった。
優しく穏やかで少々気の弱い彼となら、きっと上手くやっていけると、そう思っていたけれど、彼にあるのは野心だけだった様だ。
彼の目的は最初から私ではなく、シュミット伯爵家だったのだから。
「どのみちこのシュミット伯爵家には、婿養子として入る予定でした。ですから相手がエリスに変わっても、問題ないのではないでしょうか?」
まさかこんな事を言う人だとは思わなかった。
二年前、私達の婚約披露パーティーで、アダムに言われた言葉が蘇る。
「ヘルベルトを選ぶなんて、君は本当に見る目がないな」
そうだ、私は本当に見る目がない。
結局こんな事までアダムには勝てないのだ。
悔しさと情けなさで溢れる涙を一人で拭い、誰にも抱きしめて貰えない体を両腕で強く抱きしめた。
読んで頂いてありがとうございます。