一
目を覚ますと私は病室にいた。
わざわざ言うまでもないと思うかもかもしれないが、私にはこの病室に来るまでの記憶がないのだ。つまり何故自分がここにいるのかが分からなかった。
何か情報を得ないと。そう思って体を起こしたとき、男の声が耳に触った。
「大丈夫?」
その声の主は私の隣にいた。
丸眼鏡に黒髭のその男は、私を見て心配そうな顔をしていた。こんな時はうんとかすんとか言うのが普通の反応なのだが、私にはそれができなかった。
なぜか。それは私がその男を知らなかったから。
「誰?」
長く使っていなかった喉からは、掠れた声しか出なかった。
「そうか、僕のことは……」
彼の顔が少し曇った。
「なら、自分の名前は言えるかい?」
男は急に私の名前を聞いてきた。
知らない男に名前を言うなどしたくはないが、彼にはなぜなのか初めて会うような感じはしなかった。
私は自分の名前を………………思い出せない。自分の名前が思い出せない。
「あれ……?あれ…………?」
頭の中が真っ白になり、冷や汗が背中をつたう。
「ああ、無理に思い出さなくていいんだ」
彼の言葉で私は思考を制止させた。
「落ち着いて、落ち着いて」
彼の手が私の背中を優しく撫でてくれた。彼のその手の感触に私はどこか懐かしさを感じる。
「ほら、深呼吸して」
彼は落ち着いた声音で私にささやいた。
胸に手を当て鼻から大きく息を吸い込み、そして吐く。私は言われたとおりに深呼吸をした。
少し経って何とか落ち着くことができたが、依然として自分の名前を思い出すことはできなかった。
「はい、水」
男がコップを差し出してくれた。私はそれを受け取って飲んだ。
潤いを取り戻した喉からは、ちゃんと声を出すことはできた。
「あの、ここはどこなのですか?」
私は男に聞いた。
「ここは見ての通りただの病院。そしてその一室だよ」
「そうなんですか。それと何で私は病院にいるのですか?」
「そうだね。理由としては君は事故に遭った。それだけ」
「事故?」
覚えのない出来事に私は首を傾げた。
「覚えてないか。まあ、その話はまた後でしてあげるから」
男はそう言って席から立ち上がり、窓を開けた。窓からは夕日の光が入ってきた。
「でもね、そんなことより君に話さないといけないことがある」
男の紅に染まった横顔は、先ほどよりもずっと神妙になった。瞬間突風が吹き、カーテンが大きく舞う。
「君の両親は事故で亡くなった」
男はそう告げると横目で私を見た。
「まあ、君は両親のことも忘れてしまっているだろうから」
「はい……」
彼の言うとおり、私は両親の顔さえも忘れてしまっていた。忘れるというよりかは思い出せないの方が近いかもしれない。そんな両親が亡くなったと言われても、悲しみようがない。
「すみません、実感がなくて……」
「……そうだよね」
彼はそれを理解していてくれた。