ある青年の人生
短編で悲しいお話を、と思って
つい先程、曇天覆う校舎屋上放課後、時雨れる頃合いに青年が飛び降り自殺しこの世を去った。
彼の人生は齢十七で幕を閉じたのだ。
果たしてこれは怠惰な逃亡か?
彼は高校でいじめを受けていた————同級生からそして、教師から。
彼が安らぐことのできる場所はほとんどない。家でも、母親のパラノイアと鬱に対処しなくてはならなかった。
父親は母の変貌に、彼女に対する一切の愛情を失った。父親は家を空け、夜な夜な若い女と遊び歩き始めた。
母親はそのことで青年に対して理不尽に激昂した。青年は黙って、母のヒステリーを観察した。
彼にはそれでも、生きる意味があった。
彼は恋していた。
彼女はいつも放課後図書室の決まった座席で静かに本を読んでいた。可憐だった。
彼には、彼女に話しかける勇気などなかった。それでも構わなかった。
大きな机を一つ挟んで、斜め後ろ5メートルの距離。そこに彼は座って彼女と同じ動作をする。
強くなってきた西日が、図書館の厚手のレースカーテンに差し込んで、
館内の壁や天井にゆったりとした光の軌跡を描く。ここだけが彼の安息の地。
そこは眩しいまでの優しさに溢れている。彼はそれだけで生きていられた。
どんな理不尽でも、彼にとっては許容できるように思えた。かの聖域のおかげで。
彼の一方的で去私的な恋愛感情に、彼女は薄々気がついていた。
彼女は、彼が普段どんな仕打ちを受けているか知らなかった。違うクラスだった。
本を読むことに関する彼女のルーティーンは、彼女の中で確固たるものだった。
だから青年が彼女を好いていることによって、
その習慣を意図的に変えようという気は彼女の中に起こらなかったが、しかし、
彼女は彼のことを嫌悪した。
彼は自殺する直前、いつものように図書室に本を読みに来た。彼女がいない。
青年は立ち尽くした。そして、事態の原因を直感した。彼はかえって、落ち着きを取り戻した。
彼女がいつも座っている席、その近傍に一枚の書き置きがあった。おそらくは彼女の手書きと思われた。
この時青年は初めて彼女の直筆を目の当たりにした。彼にとっては、計り知れぬ程に尊い経験だった。
細く滑らかな筆致は、紙面に素直な黒色を残していた。
『私に付きまとわないで下さい。』————————そう、書いてあるだけだった。
彼は、彼女のその粋な計らいに、感激せざるを得なかった。
「彼女から、言葉を貰った・・・」
青年の精神は、書かれている事実に対する率直な応答が出来ない程に疲弊していた。
青年は、柔らかな光に包まれた。
この空間では、優しさだけが絶対で、ほかの雑多な情報は抜け落ちる。
彼は健やかに、かなり久しぶりにニッコリ笑った。
笑い慣れていないせいで、左右の頬は非対称に吊り上がったので、
もしそれを見ている人がいたならば不快な思いをしただろう。彼は本当に不運な人だった。
そして、彼は屋上について、鉄柵を乗り越えて、最期の言葉を残した。
「クソ野郎め。」
低くて掠れた声で、小さくポツンと吐き捨てた。彼が押し殺して来た感情は、どんな叫びでも表現することができなかったのだ。彼は、それを悟って、諦めて、彼女や、この世のあらゆる所に溢れる理不尽さへの悪態というより、自身への戒めのような意味を込めてその言葉を言った。
彼は飛び降りた。