11・わたしからのメッセージはすぐに返して
これは昨日、僕がお風呂に入っていた時だ。
「黒羽の家のお風呂って広いなー」
僕の声が浴室の中で反響する。
黒羽の家にやって来てから、早いもので一週間は経過しようとしている。
育ちの良さが顔から滲み出ている黒羽であったが、やはり自宅も広々としていて高そうな絨毯が敷かれていたり、食器一つ取っても高そうだ。
そして——今、僕が入らせてもらっているお風呂。
追い炊き機能はもちろんのこと、ミスト機能だったり香りを浴室に充満させる機能も付いているみたいだった。
「そういや……僕って黒羽のこと、全然よく分かってないよな……」
一人呟く。
そういや、黒羽のお父さんやお母さんもまだ見たことがない。
ってかほとんど黒羽の部屋で引きこもっていることもあるんだけど。
「そうだ。ここから上がったら、黒羽にそのことについて聞いてみよう」
よし。
お風呂から上がり、脱衣所でタオルで手を拭いてから、なんとなくスマホを手に取った。
「あれ……ABYSSの通知がきてる?」
ABYSSとはトークアプリのことである。
おかしいな……僕のABYSSには母親くらいしか登録してないのに——。
しかも未読45件だと?
僕はABYSSを開いて、メッセージの中身を読む。
『くろは:悠人君−、今なにしてるのー?』
『くろは:もしかして忙しいのかなー?』
『くろは:お湯加減どう?』
『くろは:今度は一緒に入ろうねっ』
『くろは:悠人君……? 返事返ってこないけど、大丈夫? 生きてるー?笑』
『くろは:悠人君。早くメッセージ返して』
『くろは:寂しい』
『くろは:悠人君から返ってこなくて寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい』
『くろは:返して返して返して返して返して』
こんな調子で、黒羽からのメッセージが延々と続いていた。
そして現在進行形でメッセージは受信中である。
「わわわ。は、早く返さないとっ」
お風呂に入っていたのは十五分くらいとはいえ、黒羽を寂しがらせてしまうとは。
同じ屋根の下なのに……すぐに会えるのに……。
というツッコミはあまりにも愚かだ。
僕はスマホを落としそうになりながら、慣れない手つきでABYSSのメッセージを返そうと——。
「悠人君っ? 大丈夫? もしかして、お風呂の中で倒れてるんじゃ——」
バッと脱衣所の扉が開かれる。
黒羽だ。
包丁を片手に持っている黒羽とご対面する。料理でもしてたんだろうか?
でも、僕はまだ服を着てないからすっぽぽんのままで……。
「きゃっ——きゃぁぁああああああああ!」
黒羽が悲鳴を上げ、包丁が横を通り抜けるのであった。
そういうわけで。
お風呂で僕(男)の裸を見られるという「それ、誰得?」みたいなイベント以降、黒羽が昨日から口を利いてくれなくなった。
とはいっても、一言も喋らないままだったけど一緒に登校したけどね。
その途中。
『くろは:わたしは怒ってます! 悠人君がABYSSを返してくれなかったら、とってもとっても怒ってます!』
と怒った絵文字付きで、ABYSSが送られてきた。
ちなみに——この時、黒羽はすぐ隣にいたけどね。
「では——次は三十二ページ。弥生時代における文化についてだが……」
そんなことを考えていたら、社会科の先生の声が耳に入ってきた。
そうだ、今は授業中だったんだ。
黒羽とは同じクラスではあるが、黒羽は一番前で僕は窓際の席なので、少し離れている。
それでも、僕の隣席の人に黒羽が「どかないと、殺すよ?」とお願いして、授業中でもべたべたしている場合も多いが。
今日はプチ修羅場中のため、珍しくおとなしく自分の席に着いて、先生の話に耳を傾けている。
「弥生文化は稲作が主として始まり〜……」
——どうすれば、黒羽に許してもらえるだろうか?
僕は授業中、そんなことをずっと考えていた。
その時であった。
『ABYSS!』
静かな教室にそんな通知音が聞こえる。
何人かが「ちゃんと通知音切っとけよ」というような視線を、僕に向けてくる。
ぼ、僕のスマホからだ!
引き出しから取り出して、通知の内容を見た。
『くろは:悠人君、今なにしてるのー?』
黒羽からのABYSSだ。
『ゆうと:授業受けてるよー』
昨日の二の舞にならないように、すぐに返信する。
『くろは:ふーん、そうなんだ。なんの授業なの?』
一分もしないうちに、黒羽からもメッセージが返ってくる。
怒ってるって言ってたくせに——もしかして、僕を試しているんだろうか?
『ゆうと:社会科。つまらない……』
『くろは:へー、そうなんだ。わたしも社会なんだ。先生誰?』
『ゆうと:田中先生だよ』
『くろは:奇遇だね! わたしも田中先生の授業なんだ〜』
同じクラスだからね。
『ゆうと:そうなんだ。田中先生より山田先生の方が』
「コラ! 篠宮! そこでなにをしているんだ!」
続けてメッセージを返そうとしたら、邪魔者が大股でこちらに接近してきた。
目線だけ上げると、どうやら田中先生らしい。
『面白いし分かりやすいと思うけどね』
こいつに構っている暇はない。
先生になにを言われようが、僕はスマホから手を離さない。
「授業中にスマホは禁止だと言っただろ! 没収だっ!」
「あっ……」
先生が無理矢理僕のスマホを取り上げる。
急にそんなことをされるものだから、一瞬頭の中が真っ白になってしまう。
——どうする?
『ABYSS!』
スマホから通知音が聞こえた。
「ふう。先生、返してください」
それによってスイッチが入った僕は、立ち上がって颯爽と先生からスマホを取り返す。
「なっ……!」
まさか取り返されると思っていなかったのか、今度は先生の動きが止まった。
教室はざわざわと騒がしくなっている。
『くろは:悠人君、大丈夫? スマホ取り上げられたよね? 良かったら、わたしが返してってお願いしようか?』
『ゆうと:いや、それには及ばない。黒羽からのABYSSを返さないといけないから、例え僕は腕が千切れようとも先生に刃向かうさ』
『くろは:悠人君、カッコ良い!』
『ゆうと:黒羽も可愛いよ』
『くろは:悠人君、今朝は怒ってごめんねっ。悠人君がそんなことを考えてくれるなんて思ってもなかったよ』
どうやら黒羽の機嫌も治ったらしい。
「コラァァアアアア! お前はなんで止めないんだぁぁあああ!」
でも先生の機嫌はさらに悪くなったらしい。
先生は再度、僕のスマホを鷲づかみにして取り上げようとする。
「わ、渡すんだ……!」
しかし今度は簡単に取り上げられるわけにはいかないな。
「離してください、先生」
「篠宮……お前はそんな反抗するような生徒じゃなかったはず……」
「今までの僕はそうじゃありませんでした。でも愛を知った僕は変わりました。それを何人たりとも邪魔は出来ない」
舐められないようにきっと睨む。
『くろは:悠人君、頑張って!』
あっ、黒羽からのABYSSだ。
「このスマホは返してもらおう」
先生の手を振り払い、僕はもう一度スマホの画面に目を向ける。
「……っ! 篠宮! この授業が終わったら、職員室に来るように!」
やれやれ、僕の愛に怖じ気づいたのだろうか。
一旦諦めて、自分のフィールドにわざわざ誘いこもうとするとはな。
だが、それは無理な相談だ。
何故なら。
『くろは:悠人君! この授業終わったら、もう早退して一緒にデートしよっ』
黒羽からデートのお誘いがあったからだ。
それならば、僕は仮に先生に呼び出されようが彼女を受け入れなければならない。
『ゆうと:了解。楽しみにしてるよ』
そんなABYSSを、僕は十秒もしないうちに返すのであった。