リキュール・エレジー
僕の日常の崩壊は突然だった。
ある日の明け方、仕事から帰ってきた父さんはいつも以上に荒れ果てていて、家に帰ってくるなり僕を呼んだ。
何の警戒もしていなかった僕の身体は父さんからの蹴りに耐えることができず、声にならない叫びをあげながら部屋の隅に縮こまる。
「てめぇなんか、アイツがつれてこなきゃ―――」
酒臭い、前髪を摑まれて唾を吐かれる。
そのまま床に投げられる。
抵抗しちゃダメだ、と僕の脳内の警報がけたたましく鳴る。
聴き取れないくらい支離滅裂な言葉を父さんは話していた。
ああ、そういえばこの人ってこの国の人じゃない、と前に母さんが言ってた気がする。
最近仕事が上手くいっていると母さんに聞いたのに、アレは嘘だったのだろうか?
せっかく傷がほとんど治ったと思っていたのに、また増えてしまうんだろうか。
「ったい…、とうさ…」
うつ伏せになった僕の背中を父さんが容赦なく背中を踏む。
ボキボキ、と音がする、なんの骨が鳴っているのか、心配する余裕すらない。
肺が圧迫され、ヒューヒューと息苦しくなってくる。
「ッか…はぁッぅぁ…」
流石にこれ以上踏んだら僕が死んでしまうと思ったのか、父さんは僕を踏むのをやめた。
起き上がって、部屋の家具と同化するかのごとく、静かに息を潜める。
父さんを目で追う、冷蔵庫から瓶の酒を数本取って、ラッパ飲みをし始めた。
空き瓶を適当に投げ始める。コロコロと僕の近くにも転がってきた。
時刻は午前七時前、もうすぐミツルが僕の家に来る時間になってしまっていた。
どうしよう、ミツルに父さんを会わせるわけにいかない。
今の状況で僕が家を出ることは出来ないだろう―――
「―――何余所向いてんだ。幸帆ォ」
父さんの声に振り返る…が、遅かった。
頭に鈍く強い衝撃が走る。
ぐらり、視界が歪む。
サー、と頭が軽くなる。そして顔が温かくなる。
片目の視界が、じんわりと赤くなる。
驚いて額に手を当てると、ぬるり、とした感覚がある。
「幸帆ォ…」
何かが飛んでくる気がして咄嗟に頭を下げる。
父さんが瓶を投げたらしく、壁に瓶が当たり割れる。
次は馬乗り、ああ、何をされるんだ。
力の限り父さんは僕を叩いたり殴ったりを繰り返す。
「いた…ぃ…、とうさん…やめて」
父さんは虚ろな目で僕を睨む、そして何も言わず殴り続ける。
「サホ!!!!!」
ガシャーン、と、リビングのガラス戸が割れる音と共に、ミツルが僕に馬乗りになっていた父さんに体当たりした。
あまりにも勢いがあり、ミツルの倍近くある父さんすら部屋の奥まで吹き飛ばす勢い。
「ミツル…?駄目だ!!逃げて!!ミツル!!」
父さんの近くに転げたミツルは、よろけながらも立ちあがって、手には小さなナイフを持っていた。
そして僕の声で父さんも唸り声を上げながら起き上がり、近くの割れた酒瓶をミツルに向けた。
「サホ!!逃げて!!」
「駄目だ!!父さん!ミツルに怪我させないで!父さん!!」
声にならないうめき声を上げて、父さんミツルに酒瓶を振りおろした。
ミツルは父さんが振りおろした瞬間、隙を見て僕の方へと走り、僕の手を取ってこう言った。
「逃げるよ」
「…うん!」
この後、僕ら二人は必死になって走った。
家から交番まで、赤い足跡を残して。
そして、偶然通りかかった警官に僕とミツルは保護された。




