リズラルドの不安
順に風呂を済ませていく兄弟とリズラルド。
リズラルドが風呂に入って間もなく、大きな地震が襲いかかり……?
「痛かったなぁ……」
リズーは、湯水がやや足りない湯船に浸かって、今日新たに出来た右腕の傷を見つめていた。傷口は先生によってふさいでもらっているため、沁みて痛いということはない。しかし、その傷の範囲は広く、細くて色白の肌にはくっきりと痕が残りそうだった。
魔術士の容姿を持つものは、たいてい色白だった。それは、黒い髪と黒い瞳を引き立たせる為の自然のいたずらなのかもしれない。
魔術士ではないリズーも、容貌だけはそれを受け継いでいた。そのため、肌の色は透き通るように白い。傷が目立ってしまう為、父親であるクレーは大袈裟なほど、気にしていたのだ。
今はもう、痛みはないとはいえ、ここまでの裂傷だ。負ったときは流石に相当の痛みを感じていた。町民に、刃物で切り裂かれたのだが、そのときはいつも助けてくれる先生が、まだ居なかったのだ。先生が駆け付けたのは、もう日が落ちてからのこと。先生も暇じゃないし、役所へ働きに行っていることは分かっている。それに、リズーは助けて欲しくて先生を待っている訳でもなかった。むしろ、自分で何とかしたいと、常々考えているのだ。それなのに、いつも町民にやられてばかり。結局は、役所の勤務時間を終えた先生が駆け付けてくれることを、待つことと同じになってしまう。
「俺、どうしてこないにも小さいんやろ」
リズーは自分が孤児であることは知っている。そのため、自分を育ててくれている先生と父親の容姿、背丈が当てにならないことも分かってはいた。それでも、他の町の子どもと比べてみても、自分は小さすぎると思えるほど、成長がみられないのだ。「止まっている」と言われれば、そのまま頷けるほど、背丈も手足も小さかった。そして、短かった。女性のような容姿であるレーゼのように、細くて長い手足でもないし、健康的な中肉中背なクレーのような、程よい筋肉もない。
決して、勉強や体術の鍛錬をさぼっている訳ではない。それなのに、リズーの身体は不自然すぎるほど、少しも成長を見せないのである。
「……何でかなぁ」
リズーが考えてみても、結果が分かることでは決してない。それでも、気になってしまうとそれをとことん考えてしまう性格であった。それが、どこまでも無駄なことであっても……だ。
ガタガタ……!
「!?」
湯が揺れた。いや、家全体が揺れている。天井からぶら下がっている照明器具も、不規則に揺れていた。大きく揺れてから、すでに十秒ほどはそれが続いている。この地方ではあまりない、地震かとも思ったが、どうもそれとは違う気がした。根拠は特にない。勘であった。
リズーは、心もとなく身体を細く白い腕で抱きしめた。揺れはきっと、いつかは収まると信じて、そのときを待った。もし、大きな地震で緊急に逃げる必要があるのならば、先生か父親が、助けに来てくれるとも思っていた。だからこそ、ここから逃げ出そうとはしなかった。下手に動いても、迷惑だと判断したのだ。
(まだ、揺れてる……)
横に揺れているのか、縦に揺れているのか。それも分からないほど、ガタガタと木製の家は音を立てながら不規則に落ち着かなかった。どれだけ湯船の中で、ちゃぽんちゃぽんと跳ねるお湯を顔に被っても、リズーはただ、黙って耐えていた。心の中は、不安でいっぱいになり、早く、どちらでもいいから、自分の保護者に助けに来てほしいというのが、小さな子どもの本音ではあった。
それでも、リズーの思いは虚しく、保護者のどちらともがこの狭い風呂場へ駆けつけることはなかった。
(もしかして、倒壊した家屋でもあるんかなぁ……)
自分を助けてくれない。
そこに、理由づけをしようとしはじめたのだ。ふたりの保護者は、このシルドの町の役人である。それも、文官ではなく、魔術士という特殊な能力を持った武官。さらに言えば、王都「ヘルリエオット」から派遣されている、身分の高い役人なのだ。粗悪にみえる黒のローブは、安そうな麻に見えて、実際は簡単な刃なら通さないほどの重厚感ある言わば「鎧」のような役目を持ったものだということも、知っている。
魔術士は、「黒」が特徴であるため、王都派遣の魔術士の役人は、この鎧ローブを身にまとうことが、義務と課されていた。ただし、勤務中の話である。そのため、家に帰ると重苦しいそれを、レーゼもクレーも、すぐさま脱ぎ捨ててしまうのだ。しかしそれは、頑丈な防御服を自ら一枚失うというリスクも負うことになる。そのため、帰宅してからも好んでローブを身にまとう役人も、少なくはない。
そう、保護者ふたりは役人なのだから、この長く不規則な揺れが大地震なのだとしたら、倒壊家屋がシルドで出ているのだとしたら、いち早く現場へ駆けつける必要性があるのかもしれない。この、リズーたちの住む平屋は、木造建てだが実は非常に頑丈にできている。魔術によって「印」を結ばれた、結界も施されている為、ぺしゃんと潰れることはないと、以前レーゼから教わっていた。
(俺は大丈夫や。ガキやない。なんもできん、ガキやないんや……)
必死に自分に暗示をかける。実際はどうなんだと突っ込まれたら、身を守るための武器も何も持っていない、魔術もない。体術ならば、先生から習っているが、こんなときになんの役に立つというのだ。リズーが教えてもらいたいくらいだ。
不安が、暗示を簡単に凌駕してしまう。リズーは、大人を演じるには幼すぎた。人生経験も、少ない。これが本当に、いつもある「地震」であるのか、それとも他の要因によるものなのかどうかの判断さえ、出来ないでいる。いや、それを判断できるのであれば、かなりの有識者であろう。それを、リズーのようなただの子どもに求めては、酷な話というものだ。
(早く、早く収まれよ……)
揺れが収まることを、リズーはとにかく祈ることしか出来ない。自分の乏しい知識では、それ以上のことは出来なかった。
(大丈夫や。父さんたちが来ないってことは、この家にも、俺にも問題はないんや。きっと、安全ってことなんや。不安になるな、リズラルド。俺は、ガキやない)
何度も、何度も自分に言い聞かせた。けれども、だんだんと心細くなり、信頼しきっている大人ふたりのことが、分からなくもなっていく。
この十年。接し方は違えども、先生も父親も、リズラルドのことを可愛がってくれていた。優先して、物事を推進してきてくれていた。それなのに今、リズラルドはこれだけ不安に襲われているというのに、一向に助けが来ないのだ。
助けを求めるなんて行為は、弱者のすることであり、矜持の高いリズラルドはするべきものではないと内心では思っている。それでも、求めはじめている自分に気づかずにはいられなかった。
(なんで……来てくれないんだよ、先生。父さん)
ついには、膝を折って縮こまって入っていた湯船の中で、俯き身体をすぼめ、小さな身体をより一層、縮こまってこの心細さと向き合いはじめた。
駆けつけるのが遅い、今まで何をやっていたんだ。
自分のことが大切ではないのか。
とにかく、来てくれたら文句を羅列しようとした。そんな考えをすることで、リズラルドをこのやたらと長い揺れの中、自分を保とうとしていた。