踏み出す一歩
ダレンスを目指して歩き出そうとする魔女。
レーゼを連れ出そうとしたことには、理由があった。
魔女は、家族を守るための道を選択する。
時計の長針が、真下を示した。魔女は、珍しく静かにコーヒーを飲みながら、弟の「遅い」支度が終わるのを待っていた。まだ、終わりそうにもない次男、レーゼの支度。それも、仕方のないことだと思っていたのだ。
レーゼの致命傷は、幸いにも完治した。天がレーゼを生かす道を選び、また、レーゼ自身も「生きる意志」を見せているからだろうと、推測が出来る。だからこそ、魔女は待つことを選んだ。
いつもならば、手際の悪いことを嫌う完璧主義者で短気の魔女は、叱咤していただろう。「遅い」と。しかし、治癒された身体と言えども、レーゼの身体は自然に反した成長を遂げ、無理やりに強い魔術を扱って来た代償を受けている。それに、死の刻印の影響も、すべてが無かったことになったかどうかは、まだ、セルシも調査段階だった。
もともと、レーゼも手際は悪くない人間である。そのため、自らの衰えた体力と、俊敏性に、嘆いているのは魔女ではなく、実は当人であるレーゼの方だということを、誰もが覚っていた。そこを責めては、あまりにもレーゼが不憫に思えてしまうのだ。
カチ、カチ、カチ……。
時計の秒針が、時を刻む。
ネジ式のアナログ時計である。魔女が、骨董市で探して、安価で買って来たものだった。お皿などの必需品も、魔女がいろいろな街を歩いて、探してきている。その際、基本的に魔女は「イレギュラー」な力は用いてはいなかった。重力緩和し、空を飛ぶことなどは時折みせるが、もう、「魔女」として生きなくてもいいよう、それを願い魔術から離れた生き方を選択していた。
(レーゼは、少しずつ外へ連れ出した方がいい。陽の下で、きちんと生活させるべきだわ)
魔女は、残り少なくなったコーヒーを、音を立てずに静かに口の中へ滑らせる。ゴクっと時折、喉は鳴った。砂糖は贅沢品の為、まだ所持していなかった。それに、コーヒー豆もそれほど安くはないため、シャビシャビにしてほとんど苦味を感じないほどまで希薄している。
(クレーは、コーヒーには関心を持っていたのよね。コーヒー栽培でも、させてみようかしら)
脳内でそのようなことを呟きながら、魔女は最後の一飲みをする。コップには、口を当てていたところに、コーヒーの色で唇の痕がついていた。それに目を落としたが、拭き取ることはしなかった。目の前に、ようやく支度が出来たレーゼが来たからである。
「すみません、姉さん。遅くなってしまって」
「まぁ、初日はこんなものでしょ」
「初日?」
魔女は、ちらりと視線を時計に向けた。つられてレーゼも時計に目を向ける。長針が真上近くにまで来ていた。短針は、ほぼ五時を示している。
「一時間もかかっていたんですね」
「今のアンタは、ゆっくりでもいいからちゃんと動くこと。その身体でも、充分に生きられるんだってくらい、筋力つけないとね」
「そう、ですね」
「?」
一瞬、レーゼの顔色が曇ったと思い、魔女は顔を傾げた。それを見て、レーゼは視線を感じたのだろう。慌てて首を横に振った。脳裏をよぎった言葉を、掻き消すかのような仕草だった。
「行きましょう、姉さん」
「そうね。水筒は三つ持ったから。喉渇いたら、ちゃんと言いなさいよ?」
「はい」
今度は、陰りなどなく十六歳らしい素直な声と、にこやかな笑みで返答した。魔女は、椅子に座って「ミルク」を飲む天士リズーと、心配そうにレーゼについていたセルシの顔を順に見た。
「クレーのことは、頼むわよ」
「えぇ」
「任せとき!」
(…………大丈夫、よね)
天界の使者は、クレーを抹消しに来ないだろうか。
地上の武官は、クレーを討伐しに来ないだろうか。
魔女の脳裏には、不安が残っている。不安要素は、出来ればゼロにしておきたいところであった。
今のクレーには、「生きる意志」がまるでなかった。いや、もとよりクレーに、そのようなものは無かったのだろう。魔女は、そのことに気づいていながらも、何も出来なかったことを、やはり悔やまずにはいられなかった。
その思考を閉ざすように、魔女はカタンとコーヒーカップをテーブルに置き、リュックサックを背負った。レーゼもまた、魔女ほどのサイズではないが、手で抱えるほどの大きさはあるリュックサックを背負った。
「行ってきます。セルシ、リズラルド」
「おう、行ってらっしゃい。先生」
「お気をつけて、レーゼさん」
もともと穏やかな瞳であるレーゼは、より、目を細めてにこやかに微笑んだ。黒く長い癖の無い髪は、邪魔にならないよう、首のあたりでひとつに結んでいた。
玄関ドアを閉めると、魔女はゆっくりと歩き出す。太陽はすでに昇り、大地をさんさんと明るく照らしている。
「結構暑いわね。レーゼ、辛くなる前に言いなさいよ? 休憩挟みながら、ゆっくり歩くけど、倒れられたら元も子もないから」
「はい、気を付けますね」
レーゼは、ゆっくりと顔を上げていく。その先には、青空が広がっていた。雲は点々とあるけれども、雨は降りそうにない。もともと、ラックフィールドは雨の少ない地域ではあった。
「姉さん。空がとても綺麗ですね」
「そうね。ダレンスは、此処よりもっと雨が降らない地域よ。だから、アンタも骨が軋んだりしなくていいし。最高のピクニックじゃない?」
「……骨が軋むこと。誰にも相談していませんよ。姉さん、見越していたんですね」
「あったりまえじゃない。あたしを誰だと思ってんのよ」
「そうでしたね。愚問でした」
魔女は、もしものことを考え、靴底に鉄を仕込んだエンジニアブーツを履いていた。しかし、レーゼには歩きやすいようにと、靴底には吸収剤となるゴムをふんだんに使ったものを、特注で用意していた。クッションが効いていて、普通ならばどれだけでも歩けそうなほどの、弾力性に富んだ靴だった。
「アンタ、何をそんなに持ってきたの? 水筒は、あたしが持っていくって言ったでしょ?」
「はい。タオルや着替えを入れていたら、何だか荷物が増えてしまって」
「着替え? ……まさか」
そのとき、魔女は妙に嫌な思考をしてしまった。そのことに気づいたレーゼは、慌ててかぶりを振る。
「違いますよ、血ではありません。クレーみたいに……引きずってはいません」
「あ、そう……じゃあ、何?」
「私の身体、熱いんです」
「熱い?」
「変に、熱くて…………やはり、無理をしたんでしょうね」
そう言われ、魔女はそっと小さくなった弟の額に触れた。そこで、魔女は眉を寄せる。難しい顔をしては、すぐに手を引っ込めた。魔女には、その「熱」というものを、感じ取れなかったのだ。
「どうですか?」
魔女の表情の変化を見て、レーゼは少し不安げな顔をしてみせた。本人が「熱い」というのだから、熱いのだろうという考えも持つが、一方で冷静な魔女自身は、自らが感じ取った感覚を信じていた。
「そうね、少し…………」
濁そうとも思ったのだが、やはり真っすぐで折れることの出来なかった魔女は、本音を語る方が優しさだろうと、目を少しゆっくりと閉じてから、猫目を細めてやせ細った弟の両肩に手を置き、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「レーゼ。あたしには、冷たいように思えるわ」
「…………冷たいですか?」
案外レーゼは、冷静だった。流石は「銀の称号」を得ていたことにも頷ける。本来ならば、素質は「金の称号」を余裕をもって得ることが出来ていたはずの少年だ。敢えてワンランク下の地位に甘んじていたことは、兄クレーの進言によるものだった。
更にそれより力を持っていたはずのクレーは、ブロンズの地位に甘んじていた。それもまた、クレーの野望とも言える、計画のためだった。
すべてを見越していたのに、魔女はその力をもって、クレーを阻止できなかったことを、未だ悔やんでいた。結局、第一次魔王戦にて両親を失い、第二次魔王戦にて弟ふたりを失う結果になるのではないかと、不安でいっぱいだったのだ。それを防ぐために、魔女は出来ることからはじめていこうと、遂に決意したのだった。
一週間という時間は、日数的には七日間あるのだが、レーゼとクレーの傷を癒すには、あまりにも足りない。けれども、これ以上何もせずに日数を重ねることを、魔女は選択しなかった。それは単純に「短気」だからではなく、待てない理由があった。
魔女は、二日に一度はダレンスへ向かっていた。ダレンスはヘルリオット王都からは遥か遠い地ではあるが、それでもラックフィールドよりは王都に近い。そのため、真偽のほどは定かではないが、よからぬ情報も耳にしていたのだ。「千里眼」を持つと言われている元神セルシは、当然「事実」を知っていた。それを隠しているということが余計に、魔女の不安を駆り立てるのだった。
「レーゼ」
「はい?」
「あんた、死んだら許さないからね」
「……私は、死にません」
「信じるわよ、あんたのこと」
魔女は、レーゼから手を放すとしばらく目を閉じた。そして、次に目を開くと、いつものくりっとした猫目を光らせ、その瞳ににこりと微笑むレーゼを映した。
(この子も、クレーも……セルシもちび助も、守ってみせるわ)
口元にきりっとした笑みを浮かべると、魔女はダレンスのある南の方角を指さし、出発を促した。それを見て、一歩一歩確実に地面を踏みしめるよう、レーゼが先陣切ってゆっくりと歩き出した。




