戻れぬ魔王
黄金の瞳を手に入れた、イレギュラー「魔女」は「魔王」である弟に、「帰る」道を示す。
しかし、魔王が取り出したものは「プラチナの短剣」だった。
「大雨……?」
ウェイズは、レイリーシェルの中心部にある「塔」の護衛にまわっていた。レイリーシェルにも、役所はある。そこに詰めていた武官魔術士たちに召集をかけ、塔を囲んで魔王からの襲撃に備えていた。そんなところで、この大粒の雨。何が起きているのか、ここにいる魔術士たちには、予測がつかない。
「ウェイズ武官、この雨は……?」
ひとりの若い武官が声をあげた。ここに勤務するようになってから、雨らしき雨というものを、見たことがなかった為に、不思議に思ったのだろう。
しかし、この雨を「妙」だとは感じても、先ほどの「暗雲」とは違い、恐怖心は抱かなかった。
「……恵みの雨」
「恵み?」
ウェイズは空を見た。暗雲が消えている。ピリピリとした空気も消えていた。心なしか、空気が清浄化され、吸いやすくなったようにも感じる。
「この世界に神がいるとしたら……それは、あの、魔女だったのかもしれません」
「魔女?」
「……私たちがやるべきことは、ここを動かず、万全の状態で塔を守ること。それ以上のことは、後です」
「わかりました!」
ウェイズはそう指示すると、胸中で自らが「神」と位置付けた、「魔女」に望みを託すように、祈った。
※
「世界は嘘つきだ」
魔王の悪態は、やはり詠唱であった。それを、魔女は構成の段階で崩し去っていた。そのために、魔女の瞳が黄金へと変貌してからというもの、魔王から魔術というものは、実質消え去っていた。この変化が一体何であるのかを説明できるものは、現時点ではいない。魔女自身、自分に何が起きているのかを理解することは出来ていない。ただし、その変化は魔女にとって功をなすものであった。天士のサポートも、こうなれば必要などない。
「魔女さん、俺は塔へ行く!」
「えぇ、そうして。魔王は、あたしが対処する」
天士は、指先で空を切ると、そこに歪を生み出し、そこへ身を投じた。その瞬間に、この場から姿を消す。
今、ここに取り残されたのは「魔王」と「魔女」である。
「あんたとふたりっきりなんて……いよいよ、魔王狩りって感じね」
「十年前のことを言っているのかい? 過去に浸るなんて、らしくないね」
魔女には余裕があった。魔王が魔術を発動させようとした瞬間に、それを無効化する力を得ている為だ。
魔王はすでに、魔女の前では「無力」であった。
「魔王を狩るのは、きっとあたしの運命なのね」
「正義を掲げ、ひとを殺す。僕がしたことと、何か違いはあるのかい?」
魔王の皮肉は、止まらない。今、魔女が左手に持っているものは「銀の短剣」であり、イレギュラーを殺すための「プラチナの短剣」ではない。魔女の持つ剣で例え貫かれたとしても、絶命することはまずないだろう。
しかし、魔女が治癒さえも邪魔をしてきたらどうだろうか。魔王は失血死する可能性も見えてきた。今、主導権を握っているのは間違いなく「魔女」である。
「怖い?」
魔女は、おもむろに魔王に言葉を投げかけた。その問いかけが、魔王にとっては実に意外なものであったようで、一瞬細い目を見開いた。そこに隙が生じたが、魔女はあえて見逃した。
「何が? 怖いだって? 僕が、何に恐れをなさなければいけない?」
「そうやって言葉を紡いで、逃げてんのよ。あんたは、昔からそうだった。すべてのことに背を向けて、現実から逃げてきた」
「……何が言いたい?」
魔女は、手にしている銀の短剣を魔王に向けて掲げた。それを主張するように、見せつける。
「この短剣は、レーゼのもの。あんたが薬を使って、無理やりレーゼに魔術の統制を受けさせた」
「さて、何のことやら」
「目的は何だったのかしらね。武官になることによって、ヘルリオットの歴史と、イレギュラー対策を探ったんでしょ? あんたは、自身がイレギュラーであることを悟っていた」
魔女は異色を放つ目を、魔王クレーから離そうとはしない。しっかりと見据え、捕まえている。魔王は、気づいていないが魔女の精神支配の類にすっかりかかってしまっていた。現に、魔王は魔女の言葉を聞くしかなくなっている。
もっとも、魔術で攻撃しようとしても、今の魔女には通用しない。言うことを聞き、チャンスをうかがうことの方が、利口な対処とも呼べる。
「イレギュラーの末路について、あんたなりに幾つも考えたんでしょうね。父さんと母さんの死に関してはどう? あんたは、魔王を……セルシを恨んでいたの?」
「答える必要はない」
「あたしは、あんたを恨んだわ」
「……」
魔女の言葉に、ついに魔王クレーは黙った。魔女がひたすらに、魔王に怒りをぶつけ続けてきていた事実を考えれば、それは驚くべき解釈ではない。それなのに、今こうして魔王を圧倒している状況で、この言葉をあえて投げかけてくる意図が分からなかったのだ。
「レーゼも、セルシも失った…………あたしは、そう思った」
「……それは、つまり」
「生きている」
「…………」
魔王は、わずかに唇を動かした。なんと言葉を紡いだのかまでは、誰にも覚らせないよう、すぐに口を結ぶ。眉を寄せ、わずかにだが芽生え始めている苛立ちを抑えようと、自制心を働かせる。
「レーゼも、セルシも、生きてるわ! あんたの思惑はね、すでに終焉へと向かっているのよ!」
その言葉を言い終えると同時、魔女は左手で持っていた銀の短剣を下げ、魔王に向かって右手を差し伸べる。
「今なら、取り戻せる。まだ、帰れる。クレー…………帰ろう? ラックフィールドで、やり直すのよ。あたしたちのはじまりの地へ……あたしたちの、帰るべき場所へ」
「…………馬鹿々々しい」
再び、魔王は悪態をついた。今度は、顔を歪めている。魔術を放つつもりはないようで、左手で短い濡れた髪を鷲掴みにする。
大粒の雨はもう、止んでいた。空は再び青く晴れ、雲も消えていた。平穏な世界が、時計の針を刻みはじめるかのように、世界がゆっくり様変わりしているように感じられた。
「僕は許されない存在だ。だからこそ、絶望の先に未来はあると思った」
「それこそ、馬鹿げている。絶望は、絶望しか生み出さない。未来はね、あるんじゃない。築くものよ」
「この、ヘルリオットには、僕という存在は必要なかった」
「何を根拠にそう言うの? イレギュラーだから?」
魔王は、目を瞑った。そして、何度か呼吸を繰り返す。
「イレギュラーにだって、生きる権利はある。ただしあんたは、多くの命を奪ってしまった」
「…………姉さん」
「なに?」
「……ひとは、簡単には変われない」
「何が言いたいの?」
「変わりたくないと…………言っているんだ!」
魔女には、はっきりと見えた。空間が歪み、そこから短剣が現れる。
プラチナの短剣。
「!?」
プラチナの短剣は、再び真っ赤に染まっていた。




