魔王の憂い
イレギュラーを滅ぼす力を持つ「プラチナの短剣」を手に入れた魔王は、ひとり、ラックフィールドの地を訪れてた。
そこは、サレンディーズのはじまりの地であった。
「これが、プラチナの短剣ねぇ」
魔王は、感慨深く……という訳でもなく、ただ、信じられないという面持ちでその、なんの飾りもない、素朴な造りの短剣を鞘から抜いて掲げ、月明かりにかざしていた。プラチナの短剣とは、世間では「伝説」とすら思われているもので、「プラチナ魔術士」というランクがあったということを、実は知らない魔術士すらいるということを、知っていた。
これでも、ブロンズだといっても無駄に役職武官だった訳ではない。それなりの情報収集をし、「魔王」や「魔女」に関する書物。そして、「天士」の存在についての神話とも取れる報告書を、十五になった年から漁り続けていたのだ。いや、正確に言えばもっと過去から……魔女と共に、十年前に魔王討伐へ出ていた頃から、現魔王は探し続けていた。
イレギュラーの弱点。
どれだけ強かろうが、必ず生命には「弱点」が存在していることを覚っていた。しかし、逆を言えばその「弱点」を押さえれば、どんなものが「敵」となったとしても、恐れるに足りないということが言えると、考えなおした。
クレーは、先を見越していた訳ではない。万能な「神」ではない……いや、「神」ですら結果的に万能ではなかったのだが、自分は「他者」とは違う運命を辿ると、どことなく分かっていた。それゆえに、「そのとき」が来るまでに、準備をしていたということになる。
今、「魔王」となったクレーに「弱点」は存在していなかった。弱点のひとつ、「情」はとっくに捨てている。そして、物理的な弱点となりうるものとされていた「プラチナの短剣」も、ついに手中に収めた。同じくして、イレギュラーであった姉の「魔女」も、存在がイレギュラーであった「弟」も、始末した。残ったものは、再び「闇」に落ちた「元魔王」と、覚醒した「天士」のふたり。
ヘルリオットを支配する、ゼンティル国王をはじめ、称号を得ている魔術士たちは論外。イレギュラーになり得ない時点で、「魔王」の敵ではなかった。
「脆い世の中だ」
一瞬で、壊せる。それは、自信ではなく、事実。今、この時点で「魔王」は「無敵」と呼んでも差し支えないほど、脅威であった。
(概ね、仕返しは済んだ)
魔王は胸中でひとり呟く。返答を求めている訳ではないので、声に出す必要性がない。
(あとは、暇つぶし……か)
魔王は左の人差し指で空中に円を描く。瞬時に魔方陣を作り出すと、ふっと息を吹きかけた。その魔方陣を発動させるために、空気を振動させたのだ。空間が歪み、ひずみができたところに向かって、プラチナの短剣を投げ入れた。四次元と言われるその空間に放り込まれた短剣は、闇の中へと姿を消した。
魔王は、荒れ地に立ち尽くしていた。元々は、小さな集落があった場所。此処へ戻ることは、無いと思っていた場所。
ラックフィールド。
「父さん、母さん。命を懸けるほどの価値が、この世界にはあったのかい?」
何もない。墓石があるわけでもなく、両親が死に絶え眠ったのが、この地ではないことも、知っている。それゆえに、この投げかけは相応しくないということも、分かっていた。それでも、魔王は繰り返す。何かを、確かめるように言葉を紡ぐ。
「僕には、守りたいものは無い。世界を手に入れたいという願望も別にない。それでも…………」
空を不意に見た。星がよく瞬いている。それだけ、地上に明かりがないということを意味している。
「それでも、僕だけが生かされていく。未来を導く存在があるとしたら、それは何を望んでいるのだろうね」
言葉にしてみたところで、返答は来なかった。当然だろう。この「ラックフィールド」にはもう、生命体が存在していないのだから。
生まれ育った家屋も、十年前に倒壊していた。それから、この地に戻ったことは一度もなかったが、風化していようとも、それなりに何かは残っていると思っていた。しかし、此処は破滅的に何も残ってはいなかった。はじめから集落など、存在などしていなかったかのような荒れ方で、黄塵が降り注ぐ。それを別に、どうとも思わない。ただ、現実を見つめている。感傷に浸るような感性は、もとより育っていなかった。
「世界を滅ぼしたら、未来が手に入るのかもしれない」
こんな矛盾を聞き入れる「神」がいるとしたら、それはきっと「死神」だろう。魔王の思想は、どこまでも「闇」に包まれている。それを正す存在は、この世界にはもう居ない。「魔王」の天下と言って、過言ではないだろう。
「未来なんて、興味はなかったけど…………そこに立てば、何かが変わるのなら」
魔王は言葉を切った。特に、異変を感じたからではない。決意を新たにするためだ。
「……滅ぼしつくす。ヘルリオットの世界を、破壊する」
確実な方針が決まる。魔王は闇の中へ姿を消した。その出口がどこに繋がっているのかを知るものは、現時点ではいない。魔王は自由なテリトリーの中で今後の足取りを決めるべく、思考することとした。
※
「あー……もう!」
女の苛立った声が響く。それは、焦りから来るものでもある。ただし、その怒りの矛先は、間違っている。こういうものを、八つ当たりというのだと、セルシはしみじみと感じていた。
「集中できない!」
「その傷では、まだ無理ですよ」
おかしな面子で、洞穴に身を隠していた。黒髪に黒い猫目の若き女。銀の長い髪に紅い瞳の青年。緑の流れるような髪に黄金の瞳の青年。そして、黒い髪に黒い目の、乾ききった少年。
「姉さん」
「レーゼ! あんたは黙って寝てなさい!」
黒髪の少年、レーゼ。あの一件で、記憶を取り戻したが、魔術を編み出せるほどの精神力も、体力も残ってはいなかった。天士の力を借りてでも、その傷は癒せなかったからだ。それだけ、魔王の力が特出していることを証明していた。
それとも、「プラチナの短剣」の効力の証明というほうが、正しいのか。どちらにせよ、あれから数日が経っているが、魔女ルイナはそれなりに回復をしてみせたが、レーゼは未だ横たわるまま。自力では当然、他人の力を借りてみても、身体を満足に起こすことすら出来なかった。
それでも顔色が多少よくなってきたのは、「リズラルド」の存在だと思われる。「天士」として覚醒し、一度は自らのもとを去った「拾い子」だが、名づけ親である「レーゼ」のもとに、こうして戻ってきた。それは、偶然だったかもしれない。天士として覚醒した「リズラルド」は、自らをこのヘルリオットの地に召喚した「神」である「セルシ」に指示を仰ぐために、此処へ来たのだ。そこで、たまたま「レーゼ」が保護されていた。それだけのことである……と、天士は語っていた。しかし、セルシはそうではないと内心で思っていた。
天士にコミュニケーション能力を与えなかった。
それなのに、此処に居る天士「リズラルド」は、人間であった「クレー」よりも「人間」らしいではないかと、思うのだった。名付け親であり、「先生」と慕っていた頃のことを、覚醒してからも記憶している。リズラルドにとって、レーゼが特別な存在であるということは、明白だった。
絶対ということは、この世の理にはない。
神であったセルシは、それを認めた。
「魔女さん」
「その呼び方、やめてくれない? チビすけ。あぁ、もうチビでもないわね。十年前、あたしの精神をズタボロにした、張本人でしょ?」
「いっやぁ、そう言われっと、なんて答えていいもんかなぁ」
その曖昧な返答ほど、「事実」という裏付けであるということに気付いているのは、当人以外そうなのだ。魔女は、今や癖となっている舌打ちをしてみせた。しかし、何の魔力発動も見受けられない。単なる悪態に過ぎなかった。
「ほんなら、何て呼べばえぇ?」
「……」
珍しく、魔女は黙った。勝気な性格な魔女が、弟であったはずの「魔王」に、成すすべなくやられてしまったのだ。自尊心を傷つけられ、自らの力の弱さも、突き付けられたことになる。そんな状態で、イレギュラー魔術士として名付けられた別名「魔女」を、受け入れるには抵抗があるのだろう。
「ルイナさんでは、いけないんですか?」
口を挟んだのは神であり、「元」魔王だったセルシ。今のセルシには、何の力もないが、怒りによって再び「魔王」へと誘発されるだけの「要素」は消えずに持っているということが、先日のことでうかがい知れた。それは、この世界で平穏に生きるには必要な情報だったかもしれない。
「ルイナ? 俺がそう呼ぶと、なんかなぁ」
「魔女」
横たわったままのレーゼが、口を開いた。掠れた声だが、発声は出来るようになっていた。声を発することを、姉に咎められたばかりだが、再び声を発する。
「姉さんは、魔女という名が相応しい」
「どういう意味よ、それ」
魔女、ルイナは眉根をぴくりとあげて、不満げに言い放った。
「魔王は強い。でも、魔女が負けたまま終わる訳がないと、私は思っています」
「先生…………」
リズラルドはきゅっと唇を噛んだ。何かを言いかけ、無理やりそれを続けることをせず、飲み込んだかのように見えたが、レーゼの視線からでは、その様子はうかがいしれない。
魔王から絶望的に攻撃を受けたが、ここで終わりではないことは、分かっていた。そして、魔王の最終目標は、王都ヘルリオットの破壊であることも、わかっている。そのタイミングを見計らっていることも、分かってはいた。
つい、隣街であるガーデリアが破壊されたのは、今朝方のことである。ある程度の魔術士部隊が組まれていたという情報も得ることが出来ていた。おそらくは、先日逃がしてやった「ウェイズ」という武官が敷いた布陣だったのだろうと、魔女は踏んでいた。しかし、すべてが役には立たなかった。
「明日、ここを発つ」
魔女は、意を決してそう告げた。誰にというものではなかったのかもしれないが、ここにいた全員がそれを聞いていた。止めるものはいない。
「ヘルリオットがどうなろうと、構わない。それでも、あたしには魔王を止める義務がある」
「俺も行くで。魔王を止める権利がある」
「僕は……」
そう言いかけ、元魔王セルシは言葉を選んだ。
「僕は、ここでレーゼさんを守っています」
「嫌です」
反論を示したのは、寝たきりで動けないレーゼのみだった。




