神の帰還
魔王クレーはプラチナの短剣を用いて、弟レーゼにとどめを刺す。
怒りで「魔王」と逆戻りを辿ろうとしたセルシを必死に止めた魔女ルイナ。
瀕死のふたりを前に現れたのはイレギュラーを殺すべく存在する「天士」だった……?
「天士?」
「なんで疑問形なん?」
悪戯っぽく天士は笑った。その意味を探れないセルシは、困惑するしかなかった。
イレギュラーを崩壊へと導くはずの「天士」から、「殺気」をまるで感じない。それもまた、困惑の要因なのかもしれない。言葉を失くすセルシを前に、天士は言葉を続けた。
「天界で会うたんやで。遠い昔。神はもう、覚えてないんやな。変な話や」
確かに神は、もとは「天界」に住んでいた。そして神は、地上に「魔力」を持つ「魔術士」を生み出した。それは、「神」の代行者を地上に送り込む為の、神からしたらちょっとした行為であった。しかし、力を持った人間は、それを誇示し、神が求めた以上の統制を謀るようになっていった。その歴史は古い。この数十年の話ではない。何千年という年月が経っている。その経緯の中で、神々にも変化はあった。当然、魔術士にも変化はあった。
「神であるあんたが、いつ地上に身を落としたのかは、知らん。ただ、俺は十年前のあんたが生み出した、天界からの遣いや」
「僕が?」
「せや。イレギュラーの制御は、天界が統制すべきと考えたあんたは、残った力で天界とコンタクトを取った。この先に、再びイレギュラーが現れたときには、天からの武士、つまりは天士が統制という名の討伐をするよう、仕向けたんや」
「……」
覚えているようで、覚えていない。何故、記憶がはっきりしないのか、セルシには分からなかった。「魔王」であることも、「神」であることもやめた時点で、「記憶」も手放してしまったのだろうか。そう、考えるのが一番自然な流れではある。
「天士であるキミは、イレギュラーを滅ぼす」
「そうや」
「……ルイナさんと、レーゼさんは?」
セルシは、真っすぐに問いかけた。このふたりは、死ぬべき者だったのだろうか……これが、生まれたときからの宿命なのだろうかと、胸が痛む心地で答えを待つ。
本来、天士は「神」の意向で動くべきものだった。それが、今は立場が逆転している。これも、失職した故の現象であり、受け入れなければならないことなのだろうかと、自身に投げかける。
「イレギュラーやな」
「……」
「俺は十年前、この姿でその女と対峙しとる」
「……」
十年前の光景が、脳裏に広がる。確かに、存在していた。「神」から「魔王」へと変貌するわずかな隙間で、天界より「天士」を召喚したのは、セルシ自身であった。この記憶が消されていたことは、すべてを捨て「地上」で生きていく上で、邪魔なものだと判断したから故だろう。
自らの判断で、イレギュラーを討伐する手段を残してしまっていたという事実と向き合い、セルシは苦渋を噛みしめた。
しかし、天士は一向にこちらを攻め入っては来ない。その不自然さに若干の戸惑いを浮かべる。
「でも今、神はふたりを生かしたい……せやろ?」
「僕はもう、神じゃない」
「それでも、神の資質を持っている唯一の存在や。だから俺は、あんたに従う」
「!」
それは、好機と呼ばずしてなんと表するべきか。セルシは、自分の腕の中で意識を失っているルイナと、床に横たわるレーゼを示して、声を発した。今を逃せばもう、二度とチャンスはないという焦りから、口調も「神」であったときの癖が自然と入る。
「天士に告ぐ。このふたりを、即刻治癒せよ!」
「御意」
にっこりと笑みを浮かべた天士は、両手を広げて光の球を作り上げた。緑に淡く輝くその光は、ぬくもりを持っており、セルシの身体についていた傷も、癒していった。血液に、正常な体温よりあたたかいものが、一緒に混じって流れていく感覚がある。おそらく今、眠っているルイナとレーゼにも、同じことが施されているはずだ。セルシは、この治癒術の完成度の高さに安堵の笑みを浮かべた。
「人間としての名は、リズーと聞いていたけど……天士としての、本来の名は?」
「リズラルド」
「……それは」
「先生が、つけてくれた名や」
「…………そう、ですね」
セルシはゆっくりと立ち上がった。ルイナを抱き上げ、ソファーに寝かせる。見た目からしても、傷は癒えている。しかし、体力までは回復しない。限界まで使い切ったそれを回復させるには、良質な睡眠が一番だと判断した。
リズラルドは、自分よりも幼くなっている「先生」の姿を見ても、驚きはしなかった。ただし、傷がすべて癒えない様子に、眉を寄せていた。
「天界の力をもってしても、ダメなんか…………先生」
「……」
プラチナの短剣によって貫かれた腹部の傷口が、どうしてもふさがらない。胸に刻まれた、「死の刻印」も消えない。失われた血液も、戻らない。このままでは、確実に「死」が待っている。
諦めにも近い嘆きが、リズラルドから発せられると、セルシは唇を噛みしめた。
「大元を、絶たないと……いけないのかもしれませんね」
「……魔王、か」
レーゼを「先生」と呼ぶリズラルドだが、「魔王」を「父さん」とは呼ばない彼を、不自然に思ったセルシは、複雑な心境で事の次第を見守る必要があると感じていた。
「僕にはもう、術がありません。最終手段としてきた、プラチナの短剣も……奪われてしまいました」
「プラチナの短剣には、神も魔女さんも、先生も、天士である俺も、敵わん」
「すみません…………取返しのつかない、失態です」
「悔やんでもしゃーないやろ。もう、事は起きてるんや」
「そうですね」
今、すべきことは「思考」し、最善を「模索」すること。そんなことを、若き天士に言われなければ悟れないほど、セルシは判断が鈍っていた。
情が移ると、生命は脆くなる。そこに、「弱点」が生まれるからだ。その点、今の魔王は無敵といえる。「情」がないと見受けられた。あれはもう、「心無き生命」と言われても、仕方ない。
「……方法は、ある」
「?」
リズラルドは、軽くなったレーゼの身体を床から抱きかかえて起こすと、そのままベッドへ運んで寝かせた。白のシーツが、みるみるうちに赤く染まっていくのを見るだけでも、未だ出血が続いていることが分かる。
「方法はあると、俺は信じとる」
「あなたは……」
リズラルドが振り返った先には、ルイナの手を握りながら、未来を祈るセルシの姿があった。
「あなたは、本当の意味で救世主かもしれません」
「俺は、ただの天士やで? それ以上でも、それ以下でもあらへん」
「天士には、コミュニケーション能力など与えてはいない」
「?」
「それは、イレギュラーに情が移ることを恐れた、神の弱さ故の決断の結晶」
「あんた、記憶が……?」
セルシは、紅い瞳を優しく輝かせた。
「少しだけ。ほんの少しだけ、垣間見えました。昔の、自分が……」
リズラルドは、これは「神の帰還」だと捉えた。しかし、その判断を読んだのか。セルシは首を横に振った。
「だから、新たに封印します。こんな記憶は、必要ありません」
「……」
「僕は、セルシという生命体として……ルイナさんが守ろうとしたものを、全力で守ります」
「それ、どういう意味なん?」
「無力であり続ける。そういうことです」
リズラルドには、その決断の意味が理解できなかった。若い天士は、そのままに思いをぶつけてみた。
「憎くないん? 魔王を許すんか? その魔女さんはえぇかもしれん。でも、先生は……助からんかもしれんのやで?」
「憎しみからは、所詮、闇しか生まれないのです。ルイナさんが、捨て身で教えてくださったんです。僕は、同じ過ちを繰り返したくはない」
「それなら俺は、どうしたらえぇ?」
「…………」
応えたのは、セルシではなかった。あまりにも小さく、かすれた声で、セルシもリズラルドも聞き逃した。それでも、空気の振動が僅かではあったが確かにあった。それは、ベッドでぐったりと横たわるレーゼの口元からだった。
「先生!?」
「……、…………」
苦しそうに肺を上下させながら、必死に言葉を絞り出す。その光景を見て、セルシもリズラルドも同じことを考えていた。
「喋ってはいけません! レーゼさん、無理をしないでください。今は、とにかく眠ってください。きっと、何とかしますから!」
「せやで! 先生、喋ったらあかん!」
それでも、レーゼはやめるつもりはないらしい。目を閉じたまま、僅かに口を開けて言葉を絞り出す。レーゼは、意思を伝えるまで言葉を紡ぎ続けるのだと悟ったセルシとリズラルドは、次ですべてを聞き取る為に、意識を集中させた。空気の振動を静かに待つ。
「ク、レー……を…………助け、て」
弱々しくも、確かなレーゼの想いをしっかりと聞き取ったふたりは、しばらく何も言葉を発せず、その場で静寂を守った。
「…………馬鹿」
そんなふたりにも聞こえないほど小さな声で、頬を滴で濡らしながらルイナは意識を取り戻していた。




